ふたりはともだち

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まずはじめに、1人の子供がいた。 名をヘンドリックと言う。 けれども名前が長いので、一般的にはヘンリーと呼ばれていた。 彼は明るく快活で、友達も沢山いたのだがいかんせん絵に描いたような問題児であったがばかりに先生に小突かれたり、友達から笑われるなどして、その立場を確立していた。 そしてもう1人の少年、名前をアルバートと言う。 彼は体が弱く、勉強もできない、そして容量が悪く他者と関わることも積極的にしようとしない、言わば除け者のような子供であった。 ヘンリーは決して勉強ができるというわけではなかったけれども、何より明るさがあった。 例えば何もないところで躓いてしまったり、周りから笑われるような事をしてしまった時に、舌をぺろりと態とらしく出してウインクをして見せたり、先生から怒られた時には大袈裟に反省してみたりして、結局皆彼を許してしまうのである。 それに引き換えアルバート。 彼の落ち窪んだ目はまるでいつも何かに対して不満を訴えているかのようだった。 それが周囲の人間を威嚇し、また馬鹿にしているように思わせる。 彼は決して何かを訴えたいわけではなかったのだけれども、知らない間に靴がなくなったり、鉛筆に傷がついていたりすることがあった。 けれどもアルバートは決してそれに対して声を上げることはなかった、それは勇気がなかったからではなく単に億劫だったからである。 ヘンリーとアルバートは幼馴染だったのだけれども、体が大きくなるにつれて2人の距離感はどんどん離れていってしまう。 「君が大きくなると、僕はたいへん辛い。君についていけなくなるようにおもう」 「そんなことないよ、僕は君を置いていったりしないんだから。ね、学校が終わったら何をして遊ぼうか」 そんな会話だって、ヘンリーにとっては記憶の奥底にあってもうずいぶん薄れてしまったのだけれども、アルバートにとってはまるで腕の中に閉じ込めておきたい光り輝く美しい記憶なのだ。 もう彼が自分に目を向けることは無くなってしまったのだけれど、それでもあんなに人気者になったヘンリーがいっときでも自分にむけてくれた優しさ、強さ、そして暖かさを静かにじっと抱え込んで、寒い、凍てつくような教室でじっと耐え忍んでいるのだ。 「はい、それでは今日はテストをしますよ、ね。前から言っていたでしょう、こんなもの正解できなくちゃ困るんです」 騒がしかった教室が途端に静まり返り、しんとする。 みんな配られる紙に注目しているのだ、先生は紙を裏返しにして後ろに回すようにするのを言い忘れていたからだ。 問題をじっと見てはこんなの簡単だ、と安堵する表情があちこちに見える。 けれどもアルバートの顔は浮かなかった。 まるで文字が踊るかのように目が滑る、何を見ていいのか、何処を考えればいいのか全くわからない。 「それでは紙が行き渡りましたね、はい、はじめ」 鉛筆の音が響く。 楽に書こうと体勢を変えようとして椅子を引き摺る音がする。 時計の秒針がかつかつと背中を駆け上っていく。 ヘンリーはとっくに問題を解き終わってしまって、辺りを見渡していると眉間に皺を寄せて唸っている隣の席のアルバートが目に入った。 幸いにも先生は教卓の前で本を読んでいたものだから、机の中のノートの切れ端をちぎって、それに何かを書いて、机に投げる。 それに驚いたアルバートは大袈裟に驚いて思わず椅子ががたん、と大きな音を立てた。 皆の視線が一点に集まり、それは先生が大きな声で注意するまで2人に向けられた。 ごめんなさい、と蚊の鳴くような声小さな声でアルバートが謝り、ヘンリーがおどけて注意するまでその空気はどこにも行かなかった。 「ヘンドリック、アルバート。皆の時間を奪ったことは重罪ですよ」 不名誉な居残りを宣告されヘンリーは慌てて弁明したけれども、隣の少年は黙りこくるばかりだった。 結局居残りが決まり、ヘンリーは不満げに肘をついた。 そして再びまた静かな時間が戻ってきて、今度は視線だけを隣に向ける。 するとようやく紙の中身を見たアルバートが目に入り、その表情は胸が張り裂けそうなほど悲痛なもので、ヘンリーはやらなきゃよかったなぁと思った。 別に対してうるさかった訳じゃないのだ、ただテストと言う面倒な事に対して何か行動を起こしたかっただけで別に居残りをしたかったわけでも、隣の知り合いを悲しませたかったわけでもない。 「はい、おしまい。回収しますよ」 と後ろから前に紙を回しているのにアルバートは下を向いて俯くばかりで、前へと紙を渡すのを忘れていた。 「こいつさ、居残りがよっぽど嫌なんだ」 ヘンリーがアルバートの解答用紙を奪って前へと渡す。肩をすくめて見せると、不満げだった前の席の顔は小さく吹き出した。 ちぎって投げた紙の中にはたった一言、うるさい、とだけ書いたのだ。 けれどもその日を境に彼は一言も喋らなくなった。 2年の時が経ち、2人は上級生になった。 来年には中等部に上がるとのことで、先生達はより一層厳しくなった。 「見ろよ、こんなに身長が伸びちゃってさ。服がキツくてしょうがないんだ、なのに来年まで我慢しろと親は言う。早く買い替えてほしいのにさ」 まだ子供ではあるが、体格は立派に成長してゆく。 精神の幼さと体格の成長の速さに追いつけなくなる時期でもあるが、それはここも例外ではなかった。 ヘンドリックは随分身長が伸びた。 親に愛されてすくすくと育ち、毎日のご飯も必ずおかわりをして、外を走り回っているのだから当然の摂理だ。 夜がくれば眠り、朝がくれば目を覚ます。 そんな平凡な人生が、彼には心地よくて仕方なかった。 「けど、僕は嫌だなぁ。中等部に上がったら、寮に入れられてしまうから」 「別にそんなの構やしないさ、家はすぐそこなんだもの。休みが来ればすぐ帰れるよ」 「すぐと言ったって君、夏と、冬と、春だけじゃないか」 「僕は構わない、五月蝿い妹から離れられるならむしろちょうどいいぐらいさ」 などとヘンリーは言っているものの、彼の妹は寮に入る事を大層残念がっていた。 うるさいのだって、兄である彼のことを心の底から愛している証拠だ。四六時中くっついていれば、兄としてうんざりするのも仕方ない事。 「あ、僕教科書を忘れた。先に行っておいて」 呑気な昼休みはもう直ぐ終わりを迎える。 そしてこれからは慌ただしい授業前の時間だ。 廊下は走っちゃいけませんと何度も口酸っぱく言われてきたけれども、ヘンリーを今更咎める先生などいないように思える。 そして息を切らして教室へと戻ると、窓際の陽の当たらない席にアルバートが座っているのが見えた。 誰もいない教室でじっと座っているのはなんとも不気味でその近くに行きたくなかったけれども、幸いにも席が離れていたので何も言わずに教科書だけ持っていって、その場を去ろうとした。 けれども、もしかするとアルバートは次が移動教室なことを知らないのではないかという疑念に駆られた。 「おい、次の教室ここじゃないぞ」 と遠くから声をかける。 返事がなかった、無礼なやつだと思った。 「アルバート」 下を見ていた目がこちらを見据える。 「机なんか見て何が面白いんだよ、木目が目にでも見えるのか。気味の悪い奴」 踵を返して、廊下に出ようと思った。 けれども聞き逃せなかった鼻を啜る音に思わず振り向く。 「おい、なんで泣いてる、お前」 人が泣くのを見るのは久しぶりだったのでそれはもう大層狼狽えた。 しかも、人が静かに泣くのを見るのは初めてだった。 大抵の人間は何かを訴えるために泣く。 転んで痛い、だとか、テストの点で怒られてごめんなさい、だとか。 けれどもアルバートの涙は何を訴えたいのか全くわからなかった。 目を見開いたまま静かに涙を流し、声もあげずこちらを見据えるその瞳が酷く恐ろしく思える。 「僕が悪いって言いたいのか、そもそも僕は親切でお前に言ってやったのに、返事の一つもしないのが悪いんだろう」 涙を流しながら小さく首を横に振る。 自分を責めているわけではないとわかり安堵したものの、それこそ理由がわからない。 けれども何か大きなものを押し付けてこようとするのがなんだか恐ろしくなって、ヘンリーは廊下へと走り出した。 教室について、授業は始まったけれども、アルバートの席は空いたままだった。 「きっとサボりだ、卑怯な奴だなぁ」 そう話しかけられたけれども、一言も返事なんてできやしなかった。 帰ってからもずっとそのことが心の奥深くにのしかかっているようで、呼吸が辛いように思えた。大好きなご飯も喉を通らない。 そんな姿を見て心配した母親が、ヘンリーに問う。 それにすっかり安心してしまって、大声をあげて泣いてしまった。 「それはね、きっとあなたは彼の事を大切にしたかったのだけれども、傷つけてしまったことが悲しいのよ」 「僕だって、やってやろうと思ったわけじゃなかったんだ。でも彼が何をしているのかわからなくて、気持ち悪いと思ったのも本当だった」 「謝りたいと思う気持ちがあるなら、いってらっしゃい。もう夜も遅いけれども、今の時間なら外に出てもいいわよ」 涙を拭いに拭って、目元の皮膚が削げ落ちたかもしれないと思うほどに、ひりひりとした面持ちで家を飛び出した。 今謝らなければ、一生謝れないような気がしたからだ。 彼の家は遠くない、走っていけば直ぐに着く距離だった。 ぢぢぢ、と嫌な音を立てる街頭の近くを走り抜け、石で凸凹とした躓きやすい舗装の道路を走り抜けて、ドアを叩いた。 「あら、随分久しぶり」 するとカバンを持って派手な化粧をした母親が出てきて、もう出かけるからとドアを開きっぱなしのまま行ってしまった。 家の作りはあまり覚えてなかったけれども、昔と同じなら奥の方に彼の部屋があったはずだとずんずん奥へと進んでいく。 するとやはり、彼はその部屋にいた。 「アルバート」 アルバートは電気もつけずに、制服のままぬいぐるみを抱えて床に転がっていた。 随分気味が悪いと思った。 けれどもそれを謝りにきたのだから、と喉の奥に言葉を飲み込んだ。 「ごめん」 虚な目がこちらを見据え、それから少しばかり瞳孔がおかしくなって、彼は体を起こして床に座った。 無表情の彼がぬいぐるみを抱きしめる腕に力が入ったのが、布からわかる。 「謝りたいんだ、君を傷つけようとは思ってなかったのだけれど、僕はひどい事を言った。許してくれるかい」 そう言葉を紡げば、なんだか喉の奥から溢れそうになった言葉が感情になって、それは喉よりももっと上の方へとのぼっていく。 だんだん呼吸が下手になっていって目の前がじわりと滲んできた。 アルバートは無言で立ち上がり、ヘンリーの方へと向かい、ぬいぐるみをヘンリーに押し付けた。 抱きしめれば顔が埋もれるほどの大きさがあるそのぬいぐるみが、まるでヘンリーを抱きしめるように腕を回す。 そうしたのはアルバートだった。 まるでもういいよ、と言っているかのようだったが彼の顔は無表情のまま変わっていない。 「ぬいぐるみに慰められたって、ちっとも嬉しくないよ」 落ちていく涙が温もりの綿へと吸収されていき、布の色が徐々に変色していく。 自分が泣いているのだと気づいた時、顔がかっと熱くなり、なんだか情けない気持ちでいっぱいになった。 「君は、僕に許してほしいの」 それは何年振りかにきいた、旧友の声だった。 「許してほしいよ」 「じゃあ僕に、キスできる」 そう言って、幼い友人の影を纏った目の前の少年は顔をずい、と近づけてくる。 目の下のくまは真っ黒で、頬は痩せてこけていたけれども、その顔は仲の良かった頃の彼そっくりで、何もかわっちゃいないようにも思えたのだから、まあ、いいかなと思った。 それと、そうしてやらないと、彼は絶対に自分を許してくれないようにも思えたのだ。 2人は成長してしまった。 並んで頭をぶつけられたあの頃とは違う。 きっとアルバートは栄養が足りていないのだ。 ヘンリーは少しだけ屈んで、少しだけ背伸びをして顔を上に向けたアルバートと視線を合わせる。 そして口と口をくっつけて、離す。 真っ暗なこの部屋で、2人を見ている人間はどこにもいないだろうから、こんなこと忘れて仕舞えばいいと思った。 「うん、いいよ。これが仲直りの印だって、お母さんが言っていたから」 あの母親がそんな事を言うのだろうか、と先ほどすれ違った女の顔を思い浮かべる。 けれども彼がそうだと言うのだから、それでいいだろう。 彼が自分のことを好いているのかと思ってどぎまぎしたのは無駄だったようだ。 彼はこれをただの仲直りの儀式だと、そう言っているのだから。 「明日は学校に来るの」 「うん、行くよ」 「授業抜け出して、どこにいってたの」 「それは君に関係ない」 「ねえ、君の部屋随分変わってないんだね」 電気をつけると、あの頃のまま何も変わっていない部屋が色を取り戻した。 積み木のおもちゃに、足のはみ出そうなベッド。 そしてぬいぐるみの山。 額縁の中に飾られた賞状は、もう何年も前のものだった。 アルバートはぬいぐるみ一つ一つの名前を紹介してくれたけれども、ヘンリーが家を出ていく頃には一つも覚えていなかった。 次の日アルバートは学校に来た。 昨日のことなんてなかったかのように。 いつものように下を向いて、誰とも話さず、授業で当てられてもうまく答えられることはなかった。 そして決まってゴミ箱の中には彼の文房具が捨てられているのだ。 けれども今日は少しだけ違うことがあった。 ヘンリーはそれを見つけて、丁寧に水道で洗ってやって、それを乾かすことはせずアルバートの机に置き直した。 濡れたままの文房具を置かれ、アルバートは驚いたけれどもそれが彼なりの優しさだと気づいて、何も言わずに受け取った。 それをよく思わない誰かが先生に告げ口をしてヘンリーは放課後に呼び出されたが、慌てて職員室へと走り込んで行ったアルバートが事情を説明して直ぐに解放された。 最初から、先生もアルバートに対するいじめの事なんて興味なかったのだ。 被害者がもういいと言っているのだから、終わり、その程度の話だった。 計らずしも同じ時間、同じ方向に帰ることになった2人は特に会話もなく、ただ歩いた。 それはなんとなく気まずいような、話題がないような、かといって特に言及したいこともないような。 なんとなくバツが悪くて地面を見ながら歩いているヘンリーはアルバートの靴下が随分汚れていることに気づいた。 靴下だけでなく、靴も汚かった。 「アルバート、君の靴って」 そこまで言おうとして気づいた。 こんなにも汚れてボロボロになっていて、ところどころ禿げてしまっているのに同じ靴を履き続ける彼の苦悩に。 思わず彼の顔を見てしまった。 それは辛く、かなしそうに、けれども、もう笑うしかないと言ったような顔。 あの時の顔とよく似ている、と思った。 何も言葉は無いけれども、もう許してほしいと言ったような、これ以上もう何も責めないでほしい、自分を非難しないでほしいと。 「君の靴って、どのくらいの大きさなの」 だから、慌てて言い直した。 ヘンリーは随分早く背が伸びた。 だから色々追いつかなかったのだ。 靴だって直ぐにサイズが変わってしまったし、制服はきついままだ。 だから、ヘンリーはアルバートの手を引いて自分の家へと連れ帰った。 アルバートは大層驚いたけれども、そのままおとなしく着いてきた。 そして玄関の靴箱を開けて、妹が使うだろうと仕舞い込んでいた靴を引っ張り出してアルバートに履かせた。 「少しぐらいの傷はあるけど、今のよりずっとマシだろ」 それはほとんど新品同然だった。 後ろの方から母親の声がして、こっちに来る予感がしたので慌ててアルバートを追い出す。 「じゃあまた、また明日。また明日学校で」 きちんと見えはしなかったけれども、ドアを閉める時に見たヘンリーの顔は笑っているような気がした。 エプロンをつけた母親は首を傾げていたが、何もないよ、誰もいないから、と弁明すれば呆れたように戻っていく。 そしてヘンリーは用意された温かな食事を食べ、沸かされた風呂に入るのだけども、心の隅のどこかにアルバートのことが引っ掛かって仕方がない。 彼はご飯を食べているだろうか、布団は重くないだろうか、彼の足はベッドからはみ出ていないかどうか。 そしていつも決まって無表情な彼の辛そうな顔を思い浮かべてしまうと、どうしてだか胸がざわざわとして眠りにつけないのだ。 それから、ヘンリーはアルバートに務めて優しくするようにした。 それが罪滅ぼしだとは思っていなかったのだけれども、もしかしたら心の奥底ではそう思っていたのかもしれない。 可哀想な人を虐げたかのような感覚だと、心が誤解してたのかもしれないが、それに気づいてもなお、アルバートに親切にしてやろうという気持ちが薄れることはなかった。 その結果、ヘンリーは何人かの友達を失ったけれども、それを気にすることはないと自分でもわかっていたのだ。
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