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第3話 かっちゃんの部屋
赤い屋根の家に着くと、可愛らしい木製の玄関扉の前に立ち、清水和馬はズボンのポケットから鍵を取り出した。鍵は鍵穴にすんなりと入り、ガチャリと音を立てて解錠を果たす。
「本当にここの家の住人だったんだんですね。疑ってすみませんでした」
私は思わず謝っていた。
「おう!」
和馬は振り返って、大きく頷く。私は粛々と瓶を手渡した。
「根岸には赤い屋根の家に住む人に、薬の瓶を渡せと言われたので、お渡しします」
受け取った清水和馬は1秒の迷いもなく、茶畑に向かって瓶を放り投げた。美しい放物線を描いてびっくりするくらい遠くへ飛んでいってしまった。
「何するんですか!」
唖然としていると、和馬は、
「薬なんていらねぇ! しゃらくせぇ!」
と叫んだ。
「薬はちゃんと飲まないとだめなものでは?」
薬を取りに行こうか、でも、不法侵入になる?
どうしたらいいのかわからない。私はただオロオロするしかなかった。
「大丈夫。命に関わる系じゃないから」
「でも、医者に処方された薬でしょ?」
「違う違う。母親の処方だから」
「お母さんが医者なの?」
「違うよ。ただのパートタイマーだよ。息子の体のためじゃなくて、母親自身のための薬なんだよ。母親の心配を和らげるために渡される薬で、根岸も仕方なく届けているだけ。だからいいんだよ、飲まなくて」
私は涙が出てきてしまった。
「本当に?」
「えっ、やだ、泣かないで」
今度は清水和馬がオロオロする番になった。
「泣きポイントどこにあった? せっかく届けた瓶を放り投げちゃったから? 残念だったの?」
聞かれても困ってしまう。何故涙が出たのか自分でもわからなかったから。
「ううん。すごく遠くまで投げられてすごいと思った」
つい適当なことを答えてしまった。
「そんなことで泣くことないじゃないの」
和馬が上品な中年女性みたいな言い方をしたせいで私は吹き出してしまった。
笑った私を見て、和馬はホッとしたように眉尻を下げる。
「まあいいや。入って」
清水和馬は扉を開けた。
(えっ?)
思わず目を疑った。入口は玄関かと思ったら、眼の前にハンガーに掛けられたシャツやスーツ、上着の類が現れたからだ。その向こうにはベッドがあって、洋服が雑に積み上げられ、枕元にはティッシュと充電のコードがのさばる。床にも雑然と物が散らかっていた。空のペットボトル、漫画、投げ置かれたカバン、紙袋、ビニール袋。
見回しているうちに、クローゼットの中にいると気づいた。扉はこの部屋のクローゼットに通じていたのだ。
「汚いけど許してね」
清水和馬がそそくさとサンダルを脱ぎながら言う。私はその後ろ姿にならって靴を脱いだ。
「いえ、散らかっていたほうが助かります」
「どうして?」
「きれいすぎるの、怖いんです」
「そうなの?」
「はい。自分が片付けられない人間だから、きれいな部屋って責められている気がするんです」
「ーー変なの」
変かな? と首を傾げながらカーテンのない窓の、その外の景色を見る。隣の建物の壁が間近に迫っていた。その向こうには狭い空が見えていて、その違和感が背中を張っていく。さっきまで、広い空の下、田園風景のど真ん中にいたはずだ。思わず窓へと近寄る。
「ここ、どこ?」
窓の外は、明らかに、三階。街の中。コンクリートの道に建物がひしめき合って、汚れた風が底に沈む都会の中。
「現実世界の僕の部屋は、あの世界とつながっているの」
「それなら、ここから元の世界に戻れるんですか?」
「戻れるけど、藤井さんがもともといた場所には戻れないよ」
「そうですか」
「戻りたい? 急用でもあるの?」
「いいえっ」
急いで否定する私を少し不思議そうに眺めてから、床のものを適当に押し寄せ、
「そうなの?」
といいながら座布団を置いた。
「僕もね、多分あなたと同じ」
座布団に座るように促しつつ、和馬はベッドに腰掛ける。
「見ちゃったんだよ」
「見ちゃったって?」
「まあ、座ってください」
言われるがまま、リュックを胸に抱え、私は座布団に座った。心臓がバクバク言っている。見てしまった、という言葉を鍵に、記憶が少しずつ戻ってきていた。根岸の、あの姿を見た記憶が。
「もしかして、根岸?」
「うん。根岸の背中にシャボン玉みたいな色の羽が生えてきて、空を飛ぶところを見たんだよ」
「それーー私もかもしれない」
「多分そうだよ。僕もね、その姿を見たら指先が青くなったから」
「あの世界に連れてこられたんですか?」
「同じようにね。魔女のところにつれてってもらって、薬をもらって、思い出して、すぐに治った」
「薬があるんですね」
「ある。だから、あなたも魔女に薬をもらって帰るといいよ。でも、魔女は人間嫌いだから気をつけてね」
人間嫌いという言葉にちょっと怖くなる。
「帰っても、自分の部屋とあの世界につながったままなんですか?」
「いや、僕は頼んでつなげてもらった」
どうして?
きこうと思ったけど、私は口をつぐむ。清水和馬が笑顔のまま視線をそらしたからだ。その頬の輪郭に拒絶された気がした。踏み入れてはいけない、聞いてはいけないことのなのかもしれない。
「根岸とは友だちですか?」
違う話を始める。
「まあ。専門学校時代の友だち」
和馬も答えてくれた。
「学生時代の悪ノリってイヤだね。お互いに酔っ払って。俺は空を飛べる!って根岸が叫んだの。僕は根岸は嘘つき野郎って何度も言った」
「何度も?」
「うん。何度も。それはしつこく」
「それで、根岸はやけになって証明したわけですか」
「そう! 朝起きたら指先は青いし、二日酔いだし、散々だったなぁ。あの姿を見ると毒に感染することを後で説明するなんてさ」
「毒なんですか」
「鱗粉みたいな細かい粒子が体内に入り込んで、異形の龍に変えちゃうらしいよ。口からもだし、目も。目も皮膚も毒を吸収するって言ってた。異形の龍っていうのは、さっき川から大量に出てきたあれね。あいつら、龍に成りかけている人間を見つけると、鱗粉と同じ成分を撒き散らして仲間に引き入れようと攻撃してくるらしい。ちなみに俺は抗体持ちだから大丈夫」
あの時、誰かの声が頭で鳴った。
ーーお前も龍になれ
いつも自分を否定する声とは違う声。でも、もっと残酷な響きをしていた。
そこはかとない恐怖を心の隅に一滴落とし、目をそらしている隙に不安をじわじわと広げていく。そんな言葉だった。
「ほっといたら、私もあの龍になるんですか」
「多分。だんだん青い部分は増えて行くよ。そこからあの鱗みたいな羽根みたいなのが生えてくる」
指先までだった青色は、いつの間にか手の平の半分まできていた。指の付け根の毛穴から毛の代わりにキラリと光る爪のようなものが張り付いている。
「まじか」
そういうと、清水和馬がケラケラ笑い出した。
「余裕だね」
「余裕ではないです。だいたい、こんなの夢としか思えないから、どうしたらいいのか、わからないんです」
「でも、『まじか』なんて。龍になっちゃうのに」
ケラケラ笑い続けて、床に丸まっている。何がそんなに面白いのか。
私だって怖い。自分の身体に今起きている変化だ。知らない人の前で大騒ぎしてどうなるものでもない。
ひとしきり笑い終えると、
「あなたは根岸の彼女さん?」
急に真面目な顔をした。
「違います」
私も大真面目に返す。
「そこは忘れてないの?」
「はい。確実です」
親密になった記憶も感覚もない。彼女さんなんて言われるとモヤモヤする。思い出せるのは根岸の後ろ姿だけだ。誰かと楽しそうに話す背中とか、お疲れ様といって帰っていくリュックとか。それだけだ。
「それなら、どうして根岸の龍の姿を見るに至ったのだろうか」
「職場で見た気がするんです」
「職場ってグループホームだよね」
どんなきっかけで背中に羽を生やすようなことになったのだろう。グループホームで。
二人で考え込んでいると、ノックの音が鳴った。
「かっちゃん、いますか?」
和馬は顔を上げる。
「魔女が来た」
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