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最後の祈り
「夏恋ちゃん。起きた?」
私を呼ぶ声が聞こえる。春子さんの声だ。
ゆっくりと目を開いた。ホッとしたような、安堵の息遣いが聞こえた。
でも、姿が見えない。いくら周りを見ても、真っ暗でなにも見えない。春子さんはどこだろう。
「大丈夫? あのね、ここは病院よ。救急車で運ばれたの。昨日の帰り、事故に遭って……どこか痛いところはない?」
春子さんはゆっくりとそう言った。
その言葉に、徐々に脳が覚醒していく。
そうだ。私は昨日、事故に遭った。
(ということは、病院か……)
そういえば、薬品の匂いがする。嫌な匂いだ。両親の亡骸と対面したときと、同じ匂い。
……形容するなら、死の匂いとでもいうような。
(……白木先輩)
昨日、私は信号無視のトラックに撥ねられて、死ぬはずだった。
でも、未来を視た白木先輩に救われて、そして私の代わりに白木先輩が巻き込まれた。
彼は、どうなっただろう。視界がないのだから、私の祈りはちゃんと、届いただろうか。ちゃんと、助けられただろうか。
「白木くんなら大丈夫よ。まだ目を覚まさないけれど、無事らしいわ。夏恋ちゃんを守ろうと、身を盾にしてくれたんだってね……」
春子さんは私の心を読んだかのようにそう言った。
ホッとする。
(……そっか。良かった。無事だったんだ)
嬉しい、と素直に思った。そしてそう思えていることに、安心した。
「……夏恋ちゃん? どうしたの? ねぇ」
春子さんが、私の異変に気づいた。肩を叩かれる。
「夏恋ちゃん、こっちを見て。私を見て」
涙声が聞こえる。
「夏恋ちゃん、お願いよ」
瞬きをして、声の方を見るけれど、視界は黒に塗りつぶされたままだ。
「夏恋ちゃん、なに食べたい? ほら、いつもみたいにスマホで打って見せて」
手のひらにスマホらしき固いものを押し当てられる。
けれど、無理だ。なにも見えないのだ。文字なんて打てない。
手からスマホが滑り落ちた。
ごくり、と春子さんが唾を呑む音が、やけに鮮明に聞こえた。
「……夏恋ちゃん……?」
思わず、俯く。
声も出ず、目も見えない私には、もうどうやったって、自分の意志を伝えることはできない。
唇を噛む。視界を失ったことは、一ミリたりとも後悔はしていない。
でも、脳が覚醒していくほど、不安が大きくなっていく。
私はこれから、どうやって生きていけばいいのだろう。
目も見えなくて、口もきけない。これでは働くことだってできない。自分でトイレに行くことだって、できるか分からない。ご飯だって、お風呂だって……。
怖い。どうして私ばかり、こんな目に遭わなきゃいけないの――そう思った瞬間、ハッとした。
(……違う)
私は、自分で選んだのだ。こうなることを、自分で望んだ。
(……大丈夫。怖くない。怖くなんかない)
言い聞かせるように心の中で呟く。
私の世界は、元々灰色だった。そこに色をつけてくれたのは、他でもない白木先輩なんだから。
怖いはずがない。
確かめるように、ゆっくりと目を伏せる。
瞼の裏にあるのは、極彩色。
(……怖くない、怖くない……)
春子さんのすすり泣く声が聞こえる。胸がきりっと痛むけれど、泣くのだけは堪えた。
「……夏恋ちゃん。お願い、こっち見てよ」
心の内で謝罪をする。
(……ごめんなさい、春子さん。今までずっと大切にしてくれてたのに。私は春子さんに、なにも返してあげられない)
(……春子さん、いつもおしゃれだったな)
今日はどんな服を着ているのだろう。
スマートで、穏やかで、おおらかな人。大人になったら、こんな人になりたいと思った。
春子さんの声がする方を見る。声は出ないけれど、口を動かした。
『ごめんなさい、春子さん』
届いただろうか。確認すらできないのは、少し困るな、と思う。
一層泣く声が大きくなって、強く抱きすくめられた。
「謝らないで」
よかった、伝わっていた。小さく息を吐く。
「夏恋ちゃんはなにも悪くない。大丈夫よ、必ず治してあげるから……絶対、絶対治してあげる。あなたはお姉ちゃんが残してくれた宝物だもの……私が絶対守るから」
絞り出すように言う春子さんに、胸が詰まった。唇を噛み、涙を堪えてその背中に手を回す。
そのとき、がらりと扉が開く音がした。
「夏恋ちゃんっ!」
「夏恋!」
詩織ちゃんと、あいの声だ。お見舞いに来てくれたのだろう。
そういえば、詩織ちゃんと会う直前の事故だ。驚かせてしまっただろう。
謝らなくては、と思いながら、ふたりはどこにいるのだろう、と気配を探る。
「夏恋! 良かった、目を覚ましたのね」
あいのホッとした声が聞こえた。気配が近付いてくる。そちらに顔を向けた。
「……夏恋? どうしたの?」
そう尋ねるあいの声は、かすかに震えていた。目が合っていないからだろう。顔は向けられても、さすがに目を合わせることまではできない。
「夏恋ちゃん、もしかして、目が……?」
今度は詩織ちゃんの声がした。
視線を彷徨わせる私に、ふたりが息を呑むのが分かった。
「どうして……っ! どうして夏恋がこんな……」
あいの、半ば叫ぶような悲鳴が聞こえた。あいの香水の香りがした、と思ったら抱きつかれていた。見えないと、結構衝撃が強い。
「……私のせい……私が、昔あんなこと言ったから……」
私がこうなってから、あいがずっと自分の言動を悔いていたことは知っていた。
中学一年生のとき、私が白木先輩のことを相談したときのことだ。あのときあいは、好きなら諦めずに頑張れと背中を押してくれたのだ。
白木先輩の過去や未来を視る力のことを知ったのは、その後のことだった。
優しい彼女は、今でもそのことを悔いていた。
「ごめん……ごめん、夏恋。私がっ……」
違う、とゆっくり首を振った。
これは、私が自分で決めたことだ。誰も悪くない。悲しませている、私がすべて悪い。
すると、今度は詩織ちゃんが涙に濡れた声で言った。
「……春子さん……少し、夏恋ちゃんとお話してもいいですか。昨日、夏恋ちゃんに大切な話があって呼び出したんです」
そういえば、と思う。
「……えぇ。それじゃあ私、飲み物でも買ってくるわ」
扉が開く音がする。春子さんが退室したようだ。
「……夏恋ちゃん」
大切な話とはなんだろう、と耳をすませた。
視界を失った今、私には頼れるものが耳しかない。
「……あのね、私、分かったの。夏恋ちゃんとお兄ちゃんを助ける方法」
「嘘! それ本当? 詩織ちゃん」
どちらかが、私の手を取った。
「ずっと考えてたの。お兄ちゃんを助けるたびに大切なものを失っていく夏恋ちゃんを見て……私、とっても大切なことにようやく気づいた。お兄ちゃんは、一番に夏恋ちゃんの幸せを願ってる。だから夏恋ちゃん。夏恋ちゃんは、自分のために祈って」
どちらかではなかった。見えなくてもわかる。ふたりともだ。
(あったかいなぁ……)
私はこの手にいつも救われてきた。
でも、と、私はその手を握り返せずに俯いた。
正直、もう疲れてしまった。助けることも、忘れられることも。
そのとき、ふと気が付いた。
私の両手を握るふたつの手は、小さく震えていた。
「……夏恋。ダメ。諦めちゃダメだよ。私、夏恋がこのままなんて嫌」
「もう一度、奇跡を信じよう。夏恋ちゃんが幸せなら、きっとお兄ちゃんも幸せだから」
「…………」
「……夏恋の絶望する気持ちは、私たちではきっと分からない。でも私、どうしても夏恋には幸せになってほしいの。このまま、響介くんと離ればなれなんてのは絶対に嫌なの」
「私も。お兄ちゃんが好きなのは、生涯夏恋ちゃんだけだと思う。それに、私が大好きな夏恋ちゃんをこのままにはしたくない。こんな悲しい思いをするのは、もう嫌だよ」
「…………」
嗚咽が漏れる。
友だちが少しずつ弱っていくところを見るというのは、どんな気持ちだろうと考える。
私は一度でも、あいや詩織ちゃんの気持ちを考えたことがあっただろうか。
私のせいで、と泣いたあい。
詩織ちゃんも、私が声を失ったとき、悲しそうな顔をしていた。
春子さんもそうだ。
私が声を失ったとき、色を失ったとき、泣きそうな顔をして抱き締めてくれた。いろんな病院に連れていかれて、私の症状を説明して、一生懸命だった。
私がこうなったのは、自業自得なのに。
(もう、一度……信じる?)
信じられるだろうか。
恐怖が全身を駆け巡る。
「夏恋」
「夏恋ちゃん」
その声はとても温かくて、優しかった。
『やっぱりいいなぁ。音羽さんのピアノ』
『僕は君が好きだよ』
『もっと仲良くなりたい』
『君が誰といても、僕になにかを言う資格なんてないけど』
『少し、寂しいと思う』
私だって、好き。その声が好き。笑顔が好き。横顔が好き。もっと知りたかった。私だって君が他の女の子といるのを見るのは嫌だ。寂しい。
『私は……君が好き』
ずっと、ずっとずっと言いたかった言葉が、胸に溢れた。
ふたりの手を、握り返した。
ごめん。私、やっぱり自分のために祈るなんてできないよ。
だって、私の世界を色付けてくれたのは白木先輩だから。
でも、ふたりのおかげで最後に白木先輩を守る方法に気づいたよ……。
手を離し、両手を合わせる。
目を瞑った。
(……神様。これまでたくさん、白木先輩を助けてくれてありがとう。私に、彼を助けさせてくれて、ありがとう)
ずっとひとりぼっちだった私に手を差し伸べてくれたのは、春子さんだった。
灰色だった私の視界。そこに、鮮やかな色を落としてくれたのは、白木先輩だ。
初めての恋に戸惑っていた私の背中を押してくれたのは、あいだった。
白木先輩との切れた糸を、再び繋げてくれたのは詩織ちゃんだった。
白木先輩は、彼との思い出は大切な私の宝物。
私は白木先輩を失いたくない。
どうしても、白木先輩を守りたいんだ。
だから、お願い――。
(神様……もうこれで終わりにします。だからどうか私の最後の願いを叶えてください。どうか……どうか、白木先輩の一生が幸せで、笑顔で溢れていますように――)
強く握り合う手に、あいと詩織ちゃんの手が乗る。
「どうか、夏恋の願いを叶えて」
「私たちからなにを奪ったっていいから、お願い、神様」
重なり合った手は、まるで太陽を抱いているかのようにあたたかかった。
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