数ミリ動いた心

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数ミリ動いた心

悲しいことに翌日から、昼になると桑名が伊藤くんの席にやってきた。 「はい、環希のお弁当」 にっこにこで弁当箱を俺に差し出す桑名慧。 「弁当は持ってきている、いらない」 「交換こしようぜ」 着慣れていないスーツはさすがに動きにくかったのか、服装は前に戻った。とはいえ、以前ほどには砕けていない、シャツの上にニットを着て、好青年そのものに見える。 見た目はな。 「なぜ君と弁当を交換しなければならないんだ」 隣りにいることさえ禍々しい、それでも平静を保って応えた。 「それ、環希が作ったんだろ? 俺、環希が作った弁当が食べたいもん」 「俺は君の作った弁当など食べたくない」 「作ってないよ。朝、コンビニで買った弁当を弁当箱にキレイに移しただけだもん」 なんだそれ。 「わざわざ移し変える必要などないだろう」 「だって俺、弁当なんて作れないからさ、こうすれば作ったみたいに見えるだろう? 」 言ってしまったらだめじゃないのか。 俺の気を引こうとしているのだろうけれど。 ほんの少し、ほんの少し、1ミリくらいだけ心が動いた、気がする。 「俺たちは遠い親戚同士なんだからさ、弁当くらい交換こしようぜ」 「都合のいいように話しをあわせるな。それに、だからといって弁当の交換なんて、意味が分からない」 まず、遠い親戚でもないけれどな。俺が言ったのだけれど。 「あ、でもほら、りんごは俺が切ってきた」 そう言って小さなランチボックスの蓋を開けると、ひどく歪な形にカットされ入っていたりんごは、赤く変色してしまっていた。 「あれー? 朝切った時は普通だったのに、赤くなっちった」 少し唇を尖らせながら、桑名の眉が片方曲がっている。 「…… 切った後、塩水に浸しておくと、少し違うぞ」 そんなこと、教えてやらなくていいだろう。 「へぇーそうなんだ、じゃあ明日はそうしてみようっと!」 素直だな。 一生懸命に切ったのか、りんごの歪さが健気に思わせ、さらに1ミリ、合計2ミリほど心が動いた、かな。 「なぁ、弁当交換しようぜ」 「しない」 箸を手に取り、玉子焼きをつまもうとした時、 「あっ!お世話になっておりますっ!」 突然に桑名が立ち上がって入口の方を向き頭を下げたので、(え? )と瞬間そっちに気を取られる。 「今のうちっ!」 そう言って桑名が俺の弁当箱と、桑名がコンビニの弁当を詰め替えて入れた弁当箱をサッと取り替え、ものすごい勢いで俺の弁当を口に詰め込んでいる。 「なっ!何しているんだ!」 「うっまー!環希の作った弁当、まじでうまい!」 俺の作った弁当を頬張り、幸せそうな笑顔を見せる桑名慧に、また1ミリ、心が動いてしまう。 そんな子どもがやるようなあどけないこと、まるっきりの想定外で意表を突かれた。 しかし、それで俺の気持ちが恋に発展するわけではない。 心がわずかながらに動いたとしても、それはそれ、この目の前の桑名慧に恋心を抱くなどありえはしないから、失礼ながら不憫にさえ思ってしまう。 「桑名くん、檜呉さんと一緒にお弁当食べてたの? 」 伊藤くんが部署に戻り、少し不満気な声に聞こえるのは気のせいか。 そうだ、だったら席を貸さなければいい、今からでもいいから断りたまえ。 「はい、お弁当交換したんですよ」 「してないだろう、君が無理矢理奪い取ったんだろう」 淡々と隣りで話す俺の方を見て、桑名がニヤリと片唇を上げた。 「もうすぐ、環希のハートも奪い取るけどね」 伊藤くんがポカンとして「え? 」と言葉を漏らしたけれど、俺は(は? )だ。 言うんじゃないっ! ぱらぱらと部署の人たちが戻ってきているだろう、遠い親戚ということにしてあるんだ、そんなことを言うなっ、顔が引きつる。 それに君に想いを寄せている伊藤くんにだって悪い。 「あーいたいた。桑名くん、午後からレイアウトの確認頼むよ」 「了解でーす」 桑名を探していたのはデザイン部の主任、やっぱりここか、みたいな顔が気になるが。 軽快な返事をすると、俺の弁当箱をサッと取り上げて言う。 「明日は俺、この弁当箱に詰め替えるから、そっちの弁当箱にお弁当作ってきてくれよっ」 なんでだ。 しかも、やはり詰め替えるのか、詰め替えなくていいからそのままコンビニの弁当を持ってこい。 あ、いや違う、なんだかな。 桑名のペースにすっかりはめられている自分が情けない。 「遠い親戚って本当ですか? 」 「え? あ、ほ、本当だよっ」 桑名のことが好きなんだろう、伊藤くんが不安気に俺を見る。 「本当に? 」 「本当だ」 嘘だが。 「桑名くんは檜呉さんのことが好きだって、言ってるそうですよ」 …… なんだと? 「だっ、誰にだ」 「皆んなに。訊かれる人、皆んなに」 伊藤くんは平気なのか? そんなことを聞かされて、自分の状況より伊藤くんの心が気になった。 「き、君はその…… あの、俺はだな…… 」 「デートくらいしてあげればいいのに」 「えっ? いや、俺と桑名くんは…… 」 「遠い親戚なんて嘘ですよね」 「………… 」 気付いていたのか。 騙すつもりはなかったんだ、いや、騙す気満々だった、でも自己保身のためだ、伊藤くんを傷つけるつもりはなかった。 「すまない」 「どうして謝るんですか? 」 「え? いや、だって…… あ、でも安心してくれ、俺は桑名くんのことはなんとも思っていないんだ」 「ええー、かわいそう、桑名くん」 え? なんだって? 眉間に思い切り皺を寄せ、悪人を見るような目つきで俺を見る伊藤くん。 なぜそんな目で俺を見る。 「伊藤くん、だって君は、その…… 桑名くんのことを…… 」 「憧れてますよ、後輩ですけど。かっこいいし、仕事も凄いし」 「え? 」 「憧れてる人の恋は応援したいですもん」 「…… え? 」 「なのに、ひどすぎですよ、檜呉さん。桑名くんの心をもてあそんで」 えっ、と、もてあそんでいるつもりは毛頭ないが。 なんか俺、悪者になってる?
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