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そわそわ
見たって?
nononから出てくる俺をか?
いや、ちょっと待て、昨夜は…… 思い返してみたが、残念ながらnononに行った記憶しかない。
大丈夫だ、狼狽えるな。
あそこはノンケの男も普通に行く、落ち着くんだ、俺。
彼が言う、 “ ある種の ” の言葉には、とても心中穏やかでいられないが。
「…… 俺を見た? どこでだ」
「丸々町のバー、店の名前は…… なんだっけなー? 」
「丸々町? 見間違いじゃないのか? 丸々町のバーになど行ったこともない」
思い切り嘘を吐いた。
丸々町のバーになど行ったこともない、とまで言い切ってしまった。仕方ない見間違いで押し通そう。
「絶対に檜呉さんだよ、俺、檜呉さんを見間違えるはずないもん」
…… 俺を見間違えるはずがない?
君のように特段目立つ風貌ではないが、俺は。
俺を下から覗くようにして、自信満々の顔でニヤリとする桑名慧。
そもそも、なぜ君が俺を知っているんだ、まずそこだ。
俺は経理担当、出社から退社するまで部署からほとんど出たことがない。
たまに社員食堂に行くことはあるが、本当のたまーにだ。
大抵はデスクで昼食をとる。
自分で作る弁当だが、彼女じゃないかと社内では噂になってくれているから、あまり女性も寄ってこなくて助かる。
女性などに言い寄られたら面倒なだけだからな。
そういえば入社した頃は、同僚、先輩社員の女性からまで、ずいぶんと声を掛けられたものだ。
── 檜呉さん、一緒に飲みに行かない?
── 檜呉くん、週末、時間ある?
なんてな。
でも俺の恋愛対象は男。
全く嬉しくなかったな、角を立てずに断るのが大変だったな、と、そんなことをふと思い出した。
そのうちに、つれない男性だと社内で言われ、周りからは遠巻きに見られるようになった。
その方が俺としては助かったけれど。
だから、今となっては可もなく不可もない、日々の業務を平穏にこなしているだけの俺を、なぜ知っているのか不思議で仕方ない。
ちらっと隣りに視線を流してしまう。
俺と目が合い、にっこりとする桑名慧。
スッと視線を前に戻した。
「あれー? つれないじゃーん」
そしてなぜ、ため口なんだ、俺は君よりかなりの先輩だぞ。
「見間違いだ、俺は行ってない。変なことを言わないでくれ」
「変なこと? 変なことなの? そういう店って、檜呉さん知ってんだ、やっぱ」
…… 墓穴を掘ってしまったか?
いや、大丈夫だ。
「君がさっき、そう言っていただろう」
「ああ、“ ある種の ” って? 」
「そうだ」
「ある種って、どの種だか知ってんの? 」
「君は、今年入社したばかりだろう。他の人たちにもそんな口のきき方をしているのか? 」
あまりに頭にきてしまい、とりあえず口のきき方を注意した。
先輩などはとっぱらったとしても、桑名慧とは今日初めて会話をするんだ。社会人、いや、もう立派な大人だ、人としてどうなのだろうかと思うじゃないか。
「いや、他の人にはちゃんと敬語使ってるよ」
なんだと?
じゃあなんで俺にはそんな話し方なんだ。
ばかにしているのか? いや、ばかにされなければならないほどの接点もない。
そんな顔になっていたのだろう、訊かなくても桑名慧の方から話す。
「檜呉さんは俺にとって特別だからさ」
は? 何を言っているんだ?
「俺は君と話すのは、今日が初めてだが」
デスクの上の書類を処理しながら、彼の方には目線を送らず、つっけんどんに言った。
「あの店、俺もたまーに、ホントのたまーに行くんだよ」
な、なんだとっっ!?
君も……
あ、いや、ノンケの人間も飲みに来る、そっちだろう。
「店の名前も覚えていないなんて、マスターが泣くぞ」
話を膨らませなくていい、俺。
なにしてんだ、自分に呆れながら処理済みの申請書を完了箱に入れた。
「へぇー、マスターのこと、知ってるみたい」
へ? まずいな。
いや、大丈夫だ。
「バーといえばマスターだろう」
「そんなにも誤魔化すってことは、檜呉さんはやっぱ、あっちなんだ」
あっち? どっちだ。
…… そっちのことを言っているのだろうが。
「ちょっと焦ってる? 可愛いな、檜呉さん」
っ! かっ、可愛い!?
綺麗だとは散々言われてきたが、可愛いは…… 子どもの頃以来じゃないだろうか、ちょっと、そわそわしてしまう。
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