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遠い親戚
どうか桑名慧と顔を合わせませんように。
胸の中で手を合わせ、祈る俺。
顔を合わせたら、それほどまでに変わった桑名を見て、スルーするわけにはいかないだろう。
もう関わりたくない。
「まだ社食にいるんじゃないかな? 見てきたらいいですよ、檜呉さん!」
「いや、興味ない」
「なんでー? 別人みたいになってましたよっ、何があったんですかねー。しっかし、イケメンってどんな格好してもやっぱイケメンなんすね」
顎に手をやり、楽しそうに話しながら天井を見上げる伊藤くん、ゴシップ好きもいいところだな、冷めた目で見てしまう。
「もうすぐ午後の仕事が始まるぞ、浮かれてないで仕事に集中だ」
「はーい」
ウキウキとしながら俺の隣のデスクに座る。
伊藤くん、なぜそんなにもウキウキしているんだ? まさか君も同性愛者だったりするのか? そして桑名慧が好きなのか?
だとしたら、頼むから桑名の心を奪って欲しいものだと強く願った。
「失礼しまーす」
少しだらけた声、嫌な予感。
部署に誰かが入ってきたとしても、大半の人間は気に留めない。カチャカチャとパソコンのキーボードを叩く音、内線電話のベルの音、そんな音しか部屋の中に響いていない。
「えっ? 」
誰かが驚いたような声をあげると、何人かがその声が出た要因の方へと視線を送り、「え? 」「ええっ!? 」と次々に声があがった。
嫌な予感がしながらも、多分に漏れず俺も部署内を素早く見回して、そして固まる。
「え? なんすか? やだなー」
頭を掻きながら、恥ずかしそうにしているものかと思いきや、堂々と得意気な顔をしている桑名慧が予想通り、そこにいた。
「今日はちゃんと先にメールで申請してあるからさ」
領収書をぴらぴらとさせて俺の方へと向かってくる。
伊藤くんの言うとおり、金髪とも銀髪とも取れない髪が真っ黒に染まっていて、アクセサリーはひとつもつけていない、ビジネススーツに身を包んだその姿は清潔感にあふれ、昨日までの桑名慧の見てくれが、俺の中で五割増しくらいになった。
グラフィックデザイナーらしくないな、なんてことも思う。
昨夜、あれから自分で染めただろう、爪の間に黒い染め粉が残ったままだ。
どうすればいい?
桑名の風貌に何も触れないのもおかしいだろう、こんなにも変わっているのだから。でも会話はしたくない、伊藤くん、なんか言ってくれ。
「桑名くん、どうしちゃったの? そのまま営業に出れそうだよ」
よし、言ってくれた、よかった、少しほっとする。
「あ、伊藤さん、どうですか? 俺、イメチェンしてみたんですけど、変じゃないっすかね? 」
イメチェンしすぎだ。
「すっごいかっこいいよっ!社食でも皆んなに囲まれてたね、でも前の桑名くんも捨てがたいなー」
伊藤くんの意見など、どうでもいいだろう、桑名は。
なんだ、俺の意見が重要視みたいに思ってるって、自意識過剰もいいところだ、俺。でも、それしか考えらないよな。
「…… 領収書原本は社内便でいいんだ、わざわざ持ってこなくても」
桑名の方は見ずに言った。
下手に見たら、やはり何かを言わなくてはならないだろうからな。
はっ!ちょっと待て、俺が同性愛者だとバラされてしまうぞ、優しくしなくては。
「桑名くん、わざわざありがとう。では受け取るが、次回からは社内便で大丈夫だからな」
急に態度が変わった俺に、桑名も、隣の伊藤くんだってポカンとしている。
「あ、伊藤さん、明日からお昼、伊藤さんのデスク借りてもいいですか? 」
なんでだっ!?
書類を処理しながら眉がぎゅっと寄る。
伊藤くん、だめだと言え。
「うん、いいよ。僕は社食か外に食べに行くから…… 檜呉さんはいつもここで食べてるけど…… え? 」
何か気付いたような伊藤くんだ、まずい、早く話を逸らさなくては。
「おっ!桑名くん、随分と見違えてしまったよ、なぁ、伊藤くん」
とりあえず、話題を変えればいいだろう。
「…… さっきから、その話、してましたよ。聞いてなかったんですか? 」
不満気に言う伊藤くんの肩に腕を回し、桑名が小さく揺らしている。
「ねー、さっきから話してるのにねー。そう? 見違えた? 環希」
やめろーっ!!
心の中で、死ぬほど思い切り叫んだ俺。
「環希? 」
揺らされながら伊藤くんが怪訝な声を出し、すぐ横にある桑名の顔を眉をぎゅうっと寄せて見ている。
「そ、環希。環希は俺のこと慧って呼んでくんないんですよ」
「慧? 」
肩に腕を回したまま、今度は伊藤くんの胸をポンポンと軽く叩いている。
「そ、俺の名前、慧、ね」
「とっ!遠い親戚なんだ、桑名くんとはっ!」
慌てて嘘を言う俺。
「…… やっぱり知り合いだったんじゃないですか、桑名くんと」
「お、思い出したんだよっ、し、しばらく会ってなかったから、すっかり忘れていた。それにこんなに立派になってしまってさーー」
嫌な汗を掻きながら、ひどく棒読みの俺を何か言いたげにみる桑名。
「そうだよ、だから昔みたいに、 “ 慧 ” って呼んでよ」
そんなふうに話を合わせなくていい。
腹立つな、頭のひとつもぶん殴ってやりたい。
「なぁんだ、遠い親戚だったんですね、会社だからって遠慮なんてしないで、昔のように名前で呼び合ったらいいですよ」
遠い親戚と知って安堵している伊藤くん、名前で呼び合ったらいいなんて余計なことを言うな。
伊藤くんも同性愛者決定としよう。
だから、桑名とうまいことになってくれますようにと願わずにはいられない。
俺は今日、何度願ったり祈ったりしたことだろうか。
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