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分校の教室として使用している公民館は、住宅地から少し離れた場所にある。三方を森林に囲まれているため、生徒さえ帰ってしまえば人の気配もなく静かだ。
私にとっては最良の環境と言えた。
思う存分に練習ができる。
午前中の内にほとんどの生徒が早退した為、今日は授業も急遽取りやめになった。
日暮れまで数刻。時間まで私は演奏を楽しむことに決めた。
その予定だったのだが。
「奏音さん、ですか?」
左あごにヴァイオリンを構え、弓を手に取った瞬間に、後ろから名前を呼ばれた。
見なくても声の主は分かる。馬鹿みたいに落ち着いた話し方。
「……なんか用?」
なるべく平淡に返事をしながら私は振り返る。
視線の先には予想のとおり、翼を持った異邦人がいた。
「分からないことは奏音さんに聞くといい、と先生に助言をいただきました。この学校では一番のお姉さんだから、と」
喉の奥から込み上げる不満をグッと飲み込み、私は重い溜め息を吐いた。
疎開した子供が分校に入ってきたとき、おばあちゃん先生はいつもこうだ。新しい子が環境に馴染めるまで、年長の私に面倒を見させる。
百歩譲って人間の子供ならまだいい。私にだって人情はあるし、それなりの世話は焼く。けれど今回は流石にそうはいかなかった。
「他の皆さんはなぜ帰宅されたのでしょうか。体調不良の場合、早退という措置が取られることは理解しています。ですが、一見したところ皆さんの健康状態に不良は認められませんでした。それなのに、先生は皆さんの主張を許諾した。結果として学級は閉鎖され、授業は中止されています。私には分かりません。このようなことは頻繁に起こるのですか?」
少年の姿をした天使――ダイゴは、抑揚のない声でつらつらと発言を続けていた。
目の前で直立している異形の存在。私は彼をまじまじと見つめる。
特徴のない顔。私と同い年ぐらいの高校生を適当に集めたら、こんな見た目の男子が最低でも一人は居そうだ。癖のない黒髪。涼しげな一重瞼と薄い唇。目を離したら忘れてしまいそうな容貌の一方で、その肌が赤ん坊のようにつるりと滑らかなのが気になった。まるで、つい先日生まれたばかりのような。
「……そりゃあの子たちは怖いんだよ。みんな多かれ少なかれ、アレの影響を受けてここまで逃げてきてる。翼を持った天使様と同じ教室に居たくないのは当然でしょ」
「アレ、とは何でしょう。私は今日、初めて皆さんとお会いしたばかりですが」
まさか知らないとでもいうのだろうか。
あれだけの事をしておいて、という怒りの言葉が一度喉まで出かかったが、確かにその可能性も無くは無かった。過去に出現した四人の天使は、役目を終えた瞬間に光の粒となって姿を消したという。
天使という存在がただその機能を果たすために生まれ消えゆくものだとしたら、五人目に現れたこいつが、過去の出来事を把握していない事実も十分にあり得た。
とはいえ、まるで無関係のような表情をしていられるとは。
「……あんたら天使ってさ、随分とお幸せな立場なんだね」
吐き捨てるように言った私の皮肉の意味を、ダイゴはまるで理解していない様子だった。
首を傾げ、私の次の言葉を待っている。その顔を見ていると、なんだか腹が立ってきた。
無垢を気取るこいつの綺麗な顔が崩れるところを見たい。そう思った。
「だったら教えてあげるよ。……天使の吹いたラッパがこの世界になにをもたらしたのか」
私がそう言うと、ダイゴはゆっくりと頷いた。
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