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「……有給休暇?」
騎士団の一室にある事務補佐官の職務室で、私が提出した申請用紙を見てみるみる不機嫌になる上司、ヴィルツ補佐官。前髪を上げているので眉間に寄せた皺の深さが丸見えだ。
「はい」
「……それは構わないが、一か月? しかも明日から?」
この忙しい時期に、とでも言いたいのだろうけれど、こちらも譲る気はない。
黒髪に銀縁の眼鏡をかけた不機嫌な顔に、こちらもありったけの無表情で詫びを入れてみる。
「ご迷惑をお掛けするのは申し訳ないと思っています」
「その割に、譲る気はなさそうだ」
(わかってるなら受理してくれないかな)
机上に申請用紙を置き、指先でトン、と突く。
いつも無表情で不機嫌な顔を隠さない補佐官は眼鏡の向こうからじっと私を見上げた。これは怒っているのではなく、何かあったのかと心配する表情だと、長く彼のもとで働いてきた私は知っている。
この人を苦手とする職員も多いけれど、仕事のできる有能な人だ。無駄もなく判断が早いし、他人との距離を適度に取り尊重する姿勢に、私は好感を持っている。絶対にそんなことは言わないけど。
あと声がとても好みだ。低すぎない落ち着いた声は、いい声だなあといつも聴き入ってしまうので、怒っていたとしても気にならない。これこそ絶対に言わないけど。
「で? 今日は休暇だったのにわざわざこの申請をするためだけに職場に来たのか」
「はい。日中の予定は済ませたので、後はこれを受理していただけたら今日の用事は終わりです」
「差し支えなければ聞いても?」
(珍しく食い下がるわね)
いつもは休暇申請に何も言ってくることはない。自由に取らせてくれるのに。
私たちのやり取りを見ている他の職員のハラハラした視線を背中に感じながら、机の向こうの補佐官から視線を逸らさず首を傾げた。
「説明の必要が?」
「長期休暇だ。もちろんフォローはするが、できれば理由を聞き」
「傷心旅行です」
「は?」
やや食い気味に答えると、やや食い気味に補佐官が返答した。
「先ほどまで婚約解消の手続きをしていました」
「……いや、まて」
「浮気相手が妊娠したとかで」
「ま……、は? 浮気……妊娠?」
補佐官の動揺するような声と同じように、背後でもざわりと空気が揺れた。
「はい。完全に元婚約者の不義ですので、それはもうたっぷりと慰謝料をいただいてきました」
ヴィルツ補佐官はしばらく唖然と私の顔を見上げ、くいっと眼鏡を指で押し上げた。こんな表情を見るのは初めてだ。いつもは何があっても全く動じないのに。
「傷心旅行?」
「まあ、それほど傷ついてはいないんですけど」
発覚してから実は結構時間が経っている。
もう散々泣いたし怒ったし落ち込んだ。粛々と解消に向けた手続きを進めることで、なんとか自分の気持ちを乱さないよう保ちここまでやって来たからこそ、こうして今、平然と報告ができる。
深い緑の制服に身を包んだ補佐官を見下ろして、なんとか普通に報告できたことに内心ホッと胸を撫で下ろす。
「しばらくここから離れたいんです。なんていうか、噂の的になるのは目に見えているので」
婚約当初から、私が元婚約者の資産目当てに色目を使ったなどと蔑まれていた。婚約を解消したなんて噂はきっとすぐに広まるだろうし、彼の方も浮気が理由で解消など、人に後ろ指さされるのは目に見えている。
近い内に婚約解消の記事が新聞にも載るだろうから、早いうちに王都を出発したかった。
「……わかった。申し訳ないが、長期休暇になるから残った業務の引継ぎを簡単に書き出していってくれ」
「はい」
「エリカ」
ぺこりと頭を下げると、ヴィルツ補佐官はこれまた珍しく気を遣うような視線を私に向けてきた。
「……大丈夫か」
補佐官は私の元婚約者を知っている。道端で会った時に彼を紹介したことがあるのだ。
なんだかもう全てが遠い昔のようで、婚約解消の書類に署名をした時よりも遥かにずっと、補佐官の心配そうな顔を見て全てが終わったのだと実感した。
思わずふふっと笑い、肩を竦めて見せる。
「ありがとうございます。大丈夫です」
そう答えて再度頭を下げ、補佐官に背を向ける。聞き耳を立てていた同僚たちが慌てて顔を伏せるのを一瞥して、私は自分の席へ戻り引き継ぎ書の作成に取り掛かった。
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