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「貴女に婚約者がいて俺は諦めていた。貴女が彼を好きなのはよくわかっていたから。だが……あの男は貴女を裏切った」
手首を掴んでいた手が優しく私の手を包み込み、口元へ運んでそっと口付けを落とす。黒髪から覗く青い瞳は私に向けられたまま。
「俺は貴女を手に入れたい。だから、卑怯だと思いながらもあの夜、貴女に近づいた」
「ど、うして、あの姿で……」
「この姿だと、貴女には上司にしか映らないだろう?」
ふっと笑い瞳を細めるその顔は、あの夜に見せた優しい笑顔だ。
「やり直しのつもりだったんだ」
「やり直し?」
「出会いの」
その言葉にぶわりと顔が熱くなる。きっと顔は真っ赤なのだろう。
「エリカ」
ソファの座面に両手を突き膝立ちをした補佐官は、私の顔を覗き込む。
「俺たちの相性は最高だったと思うけど?」
「な、なな何を……!」
狼狽える私の顔を間近で見た彼は、ふはっと笑い、ちゅっと口付けを落とした。
「かわい」
「……!」
そのままぎゅうっと抱きしめられる。
「好きだよエリカ。ずっと貴女を見てきた」
「ヴィルツ補佐官……!」
「駄目。名前で呼んで」
「な、名前って」
「知らないはずないけど」
「知ってますけど!」
そういう問題じゃない。全然付いていけないだけなの!
「エリカ?」
(耳元でその声で囁かないでほしい!)
絶対にわかってやってる。
ずるい人だ。
「べ、ベルンハルト……」
目をぎゅっと瞑りそう囁けば、ふっと唇に吐息がかかる。満足そうに微笑んだ彼は、私の唇にそのまま口付けを落とした。
「よくできました」
(声がいい……!)
雰囲気に流されそうで、なんとか彼から距離を取ろうとしても、ソファに囲い込まれていてはどうしようもない。視線を逸らしたまま、どうしたものかとりあえず会話を試みる。
「あの」
「うん?」
「ど、どうしてここに……」
「貴女を手に入れるために」
「~~っ!」
恥ずかしい。いつもは強面のこの上司が、あの夜私を何度も絶頂に追いやった派手な男で、しかも私を好きだと言う。
「時間はある」
「え?」
「一か月」
「え? そ、うです、けど」
「俺も一緒に旅をするから」
「えっ!?」
驚いて顔を見ると、すぐそばにある青い瞳とばっちり視線が合った。せっかく引いていた熱がまたぶり返し、顔が熱くなる。
(まずいわ私、本当に顔が好みで絆されてる……!)
これでは冷静な判断なんてできない。今もうすでに、この人のやり方に流されている自覚がある。
「し、仕事はどうするんですか!」
「ちゃんと引き継いできた」
「ええ!? だって周りにはなんて……」
「エリカを落としてくるって」
「はあ!?」
「俺が貴女を好きなのはみんな知っている」
(ちょっと待ってそれどういう……!?)
「応援してくれたよ。だから心配ない」
上司、もとい彼、ベルンハルトはそう言うと、私をまたぎゅうっと抱きしめた。
「エリカ……、エリカ」
肩口に額を埋めて繰り返し私の名を呼ぶその声に、なんだか切なくなった。裏切られ傷ついていた私の心が、この人の気持ちに引っ張られて浮上していくようだ。
「好きだよ」
そのまま首筋に唇を這わせ、ちゅ、ちゅっと音を立てて上ってくる。
首筋から顎、そして唇に辿り着き、優しく柔らかく食まれて、はあっと熱く甘い息を吐き出した。
その首に腕を回し、額を合わせる。
ああ、いいのだろうか。婚約を解消したばかりでこんな風に絆されて流される私は、結局浮気をしていたあの元婚約者と変わらないのでは?
でも、それでいいのだと、もう一人の私が笑う。
結局は、他人の目を気にするのか目の前の男を信じるのか。どちらかなのだ。
「……ひとつだけ確認したいことがあるんです」
「うん? なに?」
「あの派手な格好は趣味?」
その言葉にベルンハルトはふはっと楽しそうに笑った。
「――どう思う?」
いたずらっ子のような瞳で私を見つめ返した彼は、強く深く、私に熱い口付けをした。
* * *
ひと月後、休暇から戻った私たちは婚約せず、互いの実家に挨拶をしてすぐ、ひっそりと入籍をしたのだった。
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