第5話 あのワンルームで 【最終話】

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 早朝。目を覚ますとジュンくんがにこりと微笑んでこちらを見つめていた。 「寝顔が可愛くてずっと見てられる」と言われて、変な顔をしていなかったかなと今更恥ずかしくなった。体がべたついてちょっと気持ちが悪い。  シャワーを浴びるかと聞かれ、うん、と返事をするとジュンくんはテキパキと動いて準備をしてくれた。 「ジュンくん寝れなかったよね、ごめんね」 「俺もちょっと寝たよ。それに七時までしか一緒にいられないんだもん。みかんさんを堪能しておこうって思って」  そんなふうに言われると余計に申し訳なくなって、私はジュンくんが準備してくれたバスルームに一人で入ることにした。  シャワーで念入りに体を洗いながらふと、自分がものすごく冷静でいることに気づいた。  ジュンくんに触れられる。あれは私の中でセックスではなく、紛れもなくオナニーだった。挿入を伴わないオーラルセックスというものがあるのだから、セックスだと言われると理解はするが私の中では違った。   優しく丁寧に扱われ、ベッドの上で横になっているだけで過去一番に気持ちいい、極上の快楽を与えてもらえる。綺麗な顔の男が確かなテクニックで完璧にもてなしてくれる。  それは互いを思いあい、多少の気遣いがあって慣れるまでぎこちなく営まれるセックスとは全く違うものだった。  最高に気持ちよかった。またしたいか、と聞かれれば多分はいと答える自信がある。でも、私がずっとしたかったのは、あの浦安のワンルームで望んでいたのは後者のセックスだった。  母の声が蘇る。 『子供のことを考えるとタイムリミットもあるじゃない』  分かっている。だけど、私がしたかったのは妊娠するためのセックスではなく、愛し合い、求めあうセックスだった。  それをしていたら、偶然で必然的に子供を授かる。それは母を見ていて、当然だと思っていた。けれど、それがものすごく高い理想であることを私は結婚してから思い知らされた。  この虚しさは多分、オナニーでは埋められない。 「みかんちゃん、大丈夫?」  眠ってしまったのではないかと心配して扉をノックしたジュンくんに私は「もう出るから平気」と返して、お湯に肩まで浸かった。 『ほぐしたいのって、体だけじゃないと思うんだ』  ジュンくんが居酒屋で言っていた言葉をあれは本当だったなと思う。心が少し軽い。  もう波は遠くへいってしまったような気がして、寂しいような、満たされたような不思議な感覚だけが残っていた。  朝日がまぶしい。いつもの土曜日ならまだベッドの中にいる時間に、私はジュンくんと手をつないでホテルを出た。 「また会えると嬉しいな」  綺麗な顔でジュンくんは次の予約を強請った。 「ほぐれたみたい、ありがとう」  答えになっていない気がするけれど私が今、彼に言えるのはそれだけだった。  ジュンくんと別れて、ひとり新宿駅へ向かう。  ふと、スマホを見るとホテルにはいったときに設定した機内モードがオンのままだった。オフにすると母からの不在着信が一件と友達から数件、それから珍しく後輩からのメッセージが入っていた。  休日に仕事の話かと渋々開けば、まず可愛い犬のスタンプが目に入ってきて、思わずふっと笑ってしまった。 『美香先輩、お誕生日おめでとうございます! 昨日はしつこくしてすみませんでした! しつこいついでに飯行きませんか? もちろん奢ります!』 『仕事の話じゃないですけど、美香先輩と話したいって思ってます』 『もちろん仕事についても教えてください!』  数分置きに送られている、まるで野球部員の挨拶のように元気な文面に目じりが下がる。  素直に可愛い、と思った。  昨日までの私なら、おばさんをからかって、とか卑屈になっただろう。でも、今はなぜか心に余裕があった。  なんて返そうか、素直にありがとうと伝えて、そのまっすぐな下心に乗ってみようか。  あれこれ考えているうちに、こんな時間から営業しているラーメン屋を見つけた。途端、ぐうっとお腹が悲鳴を上げる。そういえば昨日の夜はほとんど食べず、激しい運動をしてしまった。普段なら朝からラーメンなんて食べないけれど、醤油のいい香りが鼻腔をくすぐって、たまらず店へ足を進めた。  早く会いたいな。そう心の中で呟いたのはどちらに対してなの分からない。ただその声は妙に甘えていて、誰かにもたれかかるようだった。 解れた胸の内は想像していたよりもベリーみたいな濃いピンク色で、どろどろとしている。  私は母とは違う、けれど確かに私はあの母の血を引く娘なのだと、あのワンルームに誰かの影を想像して目を細めた。   了
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