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第1話 オナニー中に母から電話
しまった。
アダルト動画を横切るように表示された着信画面を非表示にしようとした指が滑り通話が開始される。平然を装い、私は性器に当てていた振動するオモチャをティッシュで包んでからベッドの端に追いやった。
「どうしたの?」
電話越しに伝わらない程度に息を整えからスマホを耳に当てる。
「ちょっと娘の声が聞きたくなっただけよ。なんかねえ、美香が夢に出てきたの。元気にしてるの?」
画面に表示された登録名で相手が誰だかは分かっていた。けれど実際に声を聞くともう電話を切りたくなる。
「元気だよ」
あからさまに迷惑がっているような声で返事をしたつもりだったが、母はお構いなしに話を続けた。
最近変えた美容院の接客が気に食わなかっただとか、近所の洋菓子店が潰れてコンビニになっただとか、正直平日の二十二時にかけていきて話す内容なのかと余計に苛立ちながら、もう今日は見ないだろう、中途半端なところで停止されているアダルトサイトのタブを削除する。
布団の中で晒しっぱなしだった性器をティッシュで拭いて、丸まっていた下着とパジャマのパンツを発掘し不完全燃焼の身体を捻じ込む。
数か月ぶりの母との会話よりも、数十分前に見つけたアダルト動画の先が気になって消したのを少し後悔した。もちろん今、見られるはずもなく、せめてもの抵抗で電話はベッドに置いたまま、通話をスピーカーモードにして数歩先の冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「お母さん。それ今じゃなきゃだめな話? 明日も仕事だし疲れてるんだけど」
ぷしゅっと栓を切る音がする。
今度ははっきりと通話を終わりにしたいと告げた。一瞬、黙った母の切なげなため息が鼓膜に染みこむ。
傷ついた、そうアピールするような態度にまるでこちらが悪いことをしている雰囲気になって「もういい?」と追い打ちをかけた。どうせひどい娘であることに変わりはない。もう今日はオナニーができないのだから、早く道具を洗って寝てしまいたい。さっきまで気持ちよくなれるお気に入りだったそれは今手間のかかる道具に変わった。
「昌義くんが飼ってた犬がいてね、ラッキーっていうんだけど死んじゃって……それで塞ぎこんでるのよ。美香も猫飼ってたからわかるでしょ?」
躊躇いがちに母は続ける。昌義くんは、母の三人目の内縁の夫だ。
「お母さん心配なのよ。あなたにこれからなにか辛いことがあったときに支えてくれる人がいないんじゃないかって思うと……」
「自分のことは自分で考えるから心配しなくていいよ」
もうそれ以上喋らないでほしい。
「でもあなた一度失敗してるじゃない。お母さんが言える立場じゃないけど、離婚して一年以上も経つのに恋人もいないみたいだし」
「とにかく考えてるから」
母に言われなくても自分が離婚してからどのくらい経過しているかなんて分かっているし、そもそも離婚して一年半以内に恋人ができて当然という母の感覚に苛立ちが這い上がってくる。
あなたはそうだったかもしれないけれど、私はあなたとは違うのだと叫びたい。
そんなことは出来ないのだけれど。
「もう美香も三十三歳になるじゃないの。子供のことを考えるとタイムリミットもあるじゃない」
「ほんとごめん、疲れてるんだ。もう寝るから。おやすみ」
殴りかかるようにスマホを取り通話を切った。母は昔から私を苛立たせるのが上手い。
異様なほど喉が渇いていて、缶ビールを水のように飲み込んだ。ぷはっと音を立てて口を離すと、すぐに胃の底からじんわりとアルコールが噎せ返ってくる。
たいして酒に強くもなく、好きでもないビールを冷蔵庫にストックしているのは一ヶ月に一回かかってくる母からの電話のためだ。
高校を卒業して大学進学のために上京し一人暮らしをしていた頃は、最初の一年を除いて殆ど電話をしてこなかった。それなのに、結婚してから孫の催促で少し増えて、一年半前に離婚してからは一ヶ月に一度はかかってくるようになってしまった。
まるで自分の年齢をカウントダウンされているようで、鬱陶しく無視してしまうこともある。そう感じてしまうのはよく母が言うように私が「冷たい人間」だからだろうか。
直近の予定があると通知が点滅するスマホのカレンダーも自動で繰り返されるバースデー登録が今年も年を重ねることを主張してくる。
――来週の土曜で三十三か。
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