庶務課の天使にゃ手を出すな!

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 天使というものをはじめて見た。  天使はゆるふわのセミロング・ヘアーを色白の小顔にまとっていた。唇のピンクはつややかに輝いて、オレの心臓を光線でつらぬいた。  柔らかくアーチを描くまゆの下、少し下がった目じりが整いすぎる顔を柔らかい印象にしている。 「――聞いてる? 孝二くん」  天使の声は少しだけ鼻にかかり、裏声が四割含まれていた。ああ、パイプオルガンの伴奏が聞こえる。天上からの光がオレを呼んでいる――。 「孝二くんってば!」 「……はっ! 気を失うところだった」  天国への階段を二段ばかり登りかけていたオレは、少しだけ語気を強めた天使に引き戻された。 「もう。集中して。大事な新人教育なんだから」 「すみません、先輩」  天使の名前は「志田晴美」といった。今日からオレがはたらくP商事庶務課の女性社員だ。  二年前に入社した晴美さんはオレの教育係をつとめることになった。 「先輩はやめて。なんだかすごく年上みたいに聞こえる。晴美でいいから」 「ええ? じゃあ、ハルさんで」 「……。なにかへんなイントネーションね? まあ、いいけど。それじゃあ、まずうちのグループについて説明するね?」  指ほっそいなぁ……。業務マニュアルの詳細を必死に説明するハルPの指を一本ずつ鑑賞していると、教育時間は飛ぶように過ぎていった。  オレの名前は後藤孝二。彼女いない歴二十二年の新人サラリーマン。趣味はハルP鑑賞です。  ひとめぼれって実在するんですね。打撃力をともなうってことをはじめて知りました。 「はい、今日はこれでおしまい。五時になったら、孝二くんはデスクをかたづけて帰っていいよ」 「あの! ハ、ハルさんは残業ですか?」 「ううん。定時で帰るけど」 「じゃ、じゃあ、駅まで一緒にいきませんか?」 「別にいいけど? わたし、歩くの速いよ?」  五時を告げるチャイムが鳴るとハルPは着替えるためにロッカーに向かった。とりあえずオレにはすることがない。スマホを取り出していじろうとすると――。 「後藤クン、後藤クン」  庶務課の先輩男子AとBがイスを引き寄せ、オレをはさんですわった。 「あぶない。あぶないよ、後藤クン」 「かわいそうで見ていられないよ」  二人の先輩は同情するように首を振っていった。 「あの、なんでしょう?」 「キミ、ケガするよ」 「命の危機もありうるよ」  うちの会社は普通の商社だ。危険物は取り扱っていないし、アブナイ薬を売っているわけでもない。反社との取引ももちろんない。  そんな職場で「命の危機」とは大げさな。 「志田さんだよ」 「晴美ちゃんだよ」 「ハルさんがどうかしましたか?」  オレは嫌な予感がした。これは話に聞く「恋のさや当て」というやつじゃないか? オレとハルPとの仲を引き裂こうという悪の秘密結社。 「悪いことはいわない。ケガしないうちに身を引いた方がいい」 「信じられないだろうが、これはキミのためなんだ。この会社には鉄の掟が存在する」 『庶務課の天使にゃ手を出すな!』  それが鉄の掟なのだという。  冗談じゃない! そんな話、聞いてられるかっての! 「天使って、やっぱりハルさんのことですか?」 「それ以外に誰がいる。広辞苑を引けば『天使とは志田晴美のことである』と書いてあるはずだ」 「それってハルさんを自分たちで独占しようとか、ファンクラブを結成したとか、そういうイタイ話じゃないんですか?」  先輩といえども恋の道に上下はない! 断じてないぞ! 「悪いけど、オレ、譲るつもりないっすよ!」 「違う。違うぞ、後藤クン」 「本当にキミのためなんだ」 『志田晴美に手を出した男には不幸が起こる』  それが嘘偽りない事実なのだと、先輩AとBは語った。なおも頑なな態度を取るオレを前にして、先輩たちは実際に起きた不幸なできごとを挙げつのった。  天使を家まで送ろうとすると、必ず遭難する。いや、スマホがあるでしょうとツッコむと、謎の電波障害でマップが見られなくなるのだという。気を取られている内に天使とはぐれ、見知らぬ路地をさまようことになる。駅にたどりつけず、夜が明けるまで歩きまわった男がいたそうだ。  ちなみに、先輩Aの実話だった。  飲み会で天使の隣に座ると、悪酔いして病院に担ぎ込まれる。酒に強くても、逆に弱くても関係ない。呼吸数と心拍数が異常に上がり、急性アルコール中毒を発症するのだ。下戸の場合は急激な下痢を催す。頭に血が上り、消化器系が機能不全になるらしい。  先輩Bは、急性アルコール中毒と突発性下痢を同時に発症したそうだ。悲惨すぎるだろっ! 「初恋だろうと、火遊びだろうと、イケおじの不倫であろうと関係ない。天使は人の上に人を作らず」 「天使に触れるものすべては不幸でズンドコなのだよ」 「悪いことはいわない。庶務課の天使にゃ手を出すな!」  先輩たちは血の涙を流す勢いでオレをいさめた。いわせておけば勝手なことを。  オレは断固たる面持ちで拒絶した。 「いやです! これは天の配剤です。聞けば聞くほど、オレこそハルさんにふさわしい!」 「後藤クンのバカ! これだけいってもまだわからないか!」  ばちーん!    先輩Aががまんできずにオレの頬をたたいた。  オレはたたかれた頬に手を当て、目を閉じて体をふるわせた。 「すまん! つい手が出てしまった」 「――いいえ。むしろありがとうございます」  オレはうっすらと顔を赤く染めて答えた。   「お、おまえ、特殊性癖保持者かぁー!」  そう。オレは英国秘密情報機関幹部の暗号名と同じ、アルファベット一文字で表示される特殊な性癖を保持していた。 『M』  あらゆる苦難はオレにとって人生を彩るスパイスでしかない! 「いかん! いかんぞ! そういう特殊性癖保持者が純情可憐な天使に近づくなど!」 「マイノリティ尊重の世論を逆手に取る気か? なんとしたたかな!」 「孝二くん、お待たせ!」  先輩A、Bが顔面蒼白になってふるえているところに、着替えを終わったハルPがやってきた。 「あ、ハルさん! それじゃあ帰りましょう」 「晴美ちゃん、やめるんだ! そ、そいつは……」 「やだなあ、先輩。個人情報を漏らしたら、パワハラでセクハラですよぉ? コンプラでガンプラ作っちゃいますよぉ?」 「ぐぬぬ……」 「あら、なんだか知らないけど三人で仲良さそうね。もう友だちになったの?」  オレはすでに気づいていた。ハルPの「天使フィルター」は悪意あるフレーズを通さないのだ。彼女の前で悪口は悪口ではなく、毒舌はおちゃめトークに変換される。  悪いな、先輩たち。オレはハルPと新たな地平に立つ! 「あれ、志田くん? もう帰り支度しちゃったの?」 「課長! なにかご用ですか?」  拳を握りしめたオレの肩ごしに、課長がハルPを呼び止めた。 「営業から交際費の申請が束になってきてね。優先順位づけして返そうと思うんだが、ちょっと手伝ってくれないかなぁ」 「わかりました。一時間もあれば十分ですね」 「やあ、すまないね。助かるよ」  課長、この野郎! 若い奥さんと可愛い双子が家で待ってるんじゃないのかよ? オレとハルPの恋路を邪魔するんじゃねえ! 「ごめんなさい、孝二くん。仕事ができちゃった。悪いけど一人で帰ってくれる?」 「……はい」  オレは文句をぐっと飲みこんだ。残業を頼まれたのはハルPのせいじゃない。恨むなら課長を恨むべきだろう。  恨んでやるとも。ハゲロ、中間管理職! 「後藤クン。わかったかね。天命には逆らえないのだよ」 「帰り道はオレたちが同行してやろう。駅前のファミレスで語り合おうじゃないか」  オレは先輩A、Bにドナドナされて、駅前に連れていかれた。たっぷり愚痴と説教を聞かされたオレは、一時間後にようやく解放されて家路に向かう電車に乗り込んだ。  ――タタン、ツッタン……。  あいていた座席にすわり目を閉じたオレは、線路と車輪が織りなすパーカッションを伴奏に寝息という吹奏楽を奏でようとしていた。  ふわり、春風――。  なにか無性に懐かしく、狂おしいほど抱きしめたくなる香りが鼻先をくすぐった。オレはぼんやり目を開けた――。  エデンの園。  オレは咲き乱れるお花畑を幻視した。たそがれたサラリーマンたちの間から後光が差していた。  そうか。ハロー効果とはこういうことか。  光の中に天使(晴海先輩)がいた。 (ハルP――)  反射的に立ち上がろうとして、オレは寸前に思いとどまった。  せっかくの偶然、いや、運命ではないか。この僥倖を生かさなくては。  その瞬間にオレは家に帰りつくことをあきらめた。偶然を装い、ハルPと同じ駅で下車する。そして、天使を家まで送るのだ。理由などなんとでもつく。女性一人で夜道は危ないとかなんとか。  ジンクスが本物ならば、おそらくオレは道に迷うだろう。それが運命というなら受け入れよう。  逆境であればあるほどオレとハルPの運勢は強くからみ合う。因縁は宿縁となって、宿命へと変わるのだ。うおー、燃えてきたぞ!  ――ギッ、カチャン、プシュー。  やがて電車が止まり、ハルPがホームに降りた。影の如く、オレもその後に続く。ホームを吹き抜ける風がハルPのセミロング・ヘアーを揺らし、天上のアロマをオレの鼻先に運んでくる。  ――プシュー、ダトン……タタン……。  オレたちが乗ってきた電車が去っていく。見慣れたカバンを網棚に載せて――。 「あ、オレのカバン……」  その後オレは次の電車で終点まで進み、落とし物センターで見つかったカバンを回収した。  すべてが終わって帰宅したのは十二時を回ったころだった。つ、疲れた……。 「ううむ。庶務課の天使おそるべし! だが、これで終わったと思うなよ。今日はこれくらいにしといてやる!」  オレは疲労感と特殊な多幸感に包まれて、眠りの国に旅立った。  ◇ 「えっ? ハルさんの誕生日って今月なんですか?」 「そうなの。十日だから、来週ね」  これは! 重要情報ゲットだぜ!  ここでナイスなプレゼントを贈ってハルPを喜ばせれば、オレたちの関係がぐっと近づくというわけだ。 「えーと、ちなみになんだけど、ハルさんってなにかほしいものありますか?」 「あ、ひょっとしてバースデー・プレゼントを渡そうとしてる? ダメよ、そういうの!」 「えっ?」  ハルPはめずらしく目をとがらせて声を強めた。まったく怖くないけどね。なんだろう。ケーキづくしのスイーツ・バーの途中で、甘じょっぱいみたらし団子を味変にはさんだみたいな? 「プレゼント禁止です?」 「だって孝二くんまだ新人じゃない? お金ないのに、むだづかいしちゃダメ!」 「ムダじゃないっす!」  オレは力をこめてさけんだが、ハルPは聞いてくれなかった。 「ダメよ。もし買ってきても受け取らないからね?」  この件はこれにて終了という勢いでハルPは話を断ち切った。残念だが、撤退やむなし。  しかし、オレは打たれ強い男。この撤退はあくまでも作戦上のものであり、敵を油断させる偽装行動である!  買わなきゃいいんでしょ? 買わなきゃ。  ならば、作る! 創る! 造る! 今日からオレはクリエイターです! どうぞ、よろしく。  今日は金曜日、十日は来週の月曜日。今晩を入れれば三日もあるではないか。  三日もあればジェット機でも作れらあ! いや、ジェット機は作れんけど。  その晩オレはハルPへのバースデー・プレゼントに何を作るかを必死に考えた。  むだづかいをするなという趣旨を考えると、材料に金をかけることはできない。  そうかといって安物はダメだ。クリエイターとしてのセンスを疑われる。あと、「誠意」的なものが足りないと思われる。そう、誠意とは「金額」と「労力」で示すものだ。  お金をかけられないとなると、「労力」をかけるしかないな。「センス」の方はお任せあれだ。  あ、バカにしてはいけない。こう見えてもセンスだけには恵まれているのだ。学力と体力が足りない部分をセンスと直感で補ってきたのが、このオレだ。  勢いと思いつきで生きてきたともいわれるが……。ほっといてくれ。 「いっそのこと、材料がいらない物を作るか? ソフト的なものってことだよね。パソコン使えないけど……」  自慢ではないがプログラミングの技術はない。エクセル表がせいいっぱいだったりするし。  情弱と呼びたくば呼べ! 病弱な美少女だったらウケがいいのに、健康な情弱男子に冷たすぎるぞ! この世の中は。  脱線した。ソフトとは無形の創作物だ! うん、いいかえてみただけだけど。  無形ね。形なきもの。  文学とか? デザインとか? レシピもありか?  ――ダメだ。全部素質ゼロだぞ。そもそもオレに創作なんてできるのか?  いや、待て待て。創作したことあるぞ? 中学時代――バンドやってたよね? 曲作ってたじゃん!  恋とか愛とか、ラブとかアモーレとか、そんなテーマで歌を作ったぞ。ぜんぶラブソングか。  中学生男子に羞恥心なんて上品なもんはないからな。勢いと思いつきでやってたぞ、路上ライブ。  楽器引けないのに。  うわあ、よく駅前とかでやったなぁ。いまから思うと恐ろしい。あんなの動画で残ってたらデジタル・タトゥーじゃん。――残ってないよな?  とにかく、金をかけずになけなしのセンスを生かすなら「音楽」だ! 自分で「なけなしのセンス」っていっちゃってるのが悲しいけど……。  それからオレは土曜の朝まで徹夜して詩を書き上げた。  朝飯食って、午後三時まで昼寝。昼から日曜の朝まで作曲し、昼寝の後、でき上がった曲をスマホに吹き込んだ。 「ハルの歌」  そうタイトルをつけた伴奏もない歌をMP3ファイルに落とし込んだ時、時刻は月曜の午前一時になっていた。 「見たか、勢いと思いつきの成果を! いや違った、センスと直感だった。どっちでもいいけど」  オレは倒れ込むようにベッドにもぐりこみ、目覚ましに起こされるまで深い眠りをむさぼった。  ◇ 「聞いてください。『ハルの歌』です」  月曜の朝、始業前のハルPをつかまえて、イヤホンで自作の歌を聞いてもらった。  だいじょうぶ。歌唱力ならある。アニソンで鍛え上げたからね。陽キャのオタクをなめんなよ? 『……ボクは天使にキスをした』  オレ入魂のラブソングが終わった。突っ走ってかなり攻めた歌詞になってしまったが、ここは勢いを大切にしようとオレのハートが主張した。  二十二歳になっても相変わらずオレには羞恥心が芽生えていないようだ。  ハルPの反応は……?  オレはおそるおそる目を上げて、ハルPの顔色をうかがった。 「えっ?」  ハルPの目じりから、つーっと涙が糸を引いた。オレは思わず言葉を失い、まばたきも忘れてハルPの顔を見つめていた。 「……やられた」 「へ?」 「これを聞いたら好きにならずにいられない」 「本当に?」  ハルPはハンカチで涙を拭き、オレの両手を握ってまっすぐ目を見た。 「孝二くん、お願い。少しだけ時間をちょうだい」 「もちろんです! いくらでも待ちます!」  これはあれかな。気持ちの整理ってやつかな。それともいまカレとの関係性にケリをつけるとか?  まさか両親に報告ってことはないよね?  オレはラブソングの思いがけぬ効き目に、すっかり舞い上がった。 「そんなに長くは待たせない。来週の月曜には答えを伝えるから」  その日の仕事のことはまったく覚えていない。どうやって家に帰ったかさえ記憶にないのだ。 「やったー! 恋歌作戦大成功! ついにハルPとお付き合いスタートか?」  オレのあたまの中はハートマークで一杯になったが、落ち着いてくると急に不安になった。 「いやいや、答えは来週までわからない。考えてみたけどお断りってこともあるかも」  むしろその可能性の方が高そうだ。断られたらどうしよう?  ――別にいまと変わらないか? 現在の関係性がほぼゼロなんだから、断られてもいま以上に悪化するわけでもなかった。  それに断られたらこの世の終わりというわけじゃないしね。それでもあきらめずに告白を続けてもいいわけだ。  ……うん、そういうシチュエーションも悪くない。あながちだぞ。  オレは浮かれたり、悶々としたりを繰り返し、運命の月曜日を迎えた。  ◇ 「ハルさん……」 「孝二くん、答えが出たわ」 「(ごくり)それで、回答は?」  オレは固唾を飲んでハルPの口元を見つめた。その唇は「イエス」と動くのか、それとも「ノー」と動くのか? 「答えは――イエスよ」 「えーっ! 本当ですか?」  ハルPはパアッときれいな顔を明るくした。 「おめでとう! デビュー決定よ!」  ぱ~ん!  ハルPはいつの間にか取り出したクラッカーを鳴らした。いや、ここ会社なんですけど。  飛び出したカラフルな紙テープにまみれながら、オレは目を点にして固まっていた。 「あのデモ演奏を音楽プロダクションに送ったの。そしたらオーディション合格だって!」  聞けばハルPはちょっと(何度も)芸能プロにスカウトされたことがあって、芸能関係に知り合いが多い。その内のひとつで、新人育成手腕に定評のある音楽プロデューサーに演奏データ(オレの鼻歌)を送りつけたらしい。  ハルPおそるべし。ってか、なに勝手なことしてくれてんの? 「えっ? じゃあ、『やられた』とか『好きにならずにいられない』って……」 「『春の歌』よ。すっごくいい曲だなって思ったの。……自分の名前が晴美だから気に入ったわけじゃないのよ?」  いや、晴海の「ハル」で「ハルの歌」なんですけど……? お誕生日のプレゼントだっていったよね? 「曲の方はアレンジャーさんが引き継いで仕上げてくれるって。孝二くんは歌の方のトレーニングね」 「へ? いったいなんの話?」 「センスはいいんだけど、プロになるには基礎から鍛えないとダメだそうよ。土曜日はボイストレーニングとダンス・レッスンね。日曜日は歌の先生について歌唱レッスンをしてもらうわ」  はい? 本人不在でなんか決まってるう? 「オレの休みは……?」 「月の最終日曜日はレッスンをお休みにしてある。体を休める日も必要だからね。その代わり、新しい歌の作詞作曲ならできるでしょ? デビュー前にストックしておかないと」 「こ、心が休まるのは平日の夜だけか……」  昼間は会社の仕事がある。いきなり二足のわらじを履くことになるなんて。 「あ、夜はジムで筋トレがあるの。体を鍛えておかないと、ステージのパフォーマンスに耐えられないから」 「殺す気かあ!」  笑顔を浮かべながら地獄のメニューを告げるハルPに、とうとうオレは怒鳴ってしまった。 「たいへんなのはわかる。でもね、孝二くん。考えてみて」 「は?」 「ど素人がいきなりメジャーデビューする機会に恵まれているのよ? こんなチャンス、人生に二度とあると思う?」 「う、うう……」  ないだろう。ふつう一度だってめぐり合えない。オレでもそれくらいはわかる。  くやしいことに、「ハルの歌」が世に出る機会があるといわれれば、オレだってそれをつかみたい! 「ね? だから半年間がんばってみて。会社のことはわたしがカバーするから」  いや、むしろ会社以外の方がたいへんなんですが……。  しくしく痛み出したお腹をさすりながら目を上げると、先輩AとBがパーティション越しにこちらをのぞいていた。  オレにはその口元が声に出さずにささやいている言葉が聞き取れる。 『だからいったろう? 「庶務課の天使にゃ手を出すな!」って』  でも、でも。せめてオレの恋心は――! 「それとね、孝二くん。デビューして一年間は恋愛禁止よ」 「そんな!」 「遊びたい年頃なのはわかるけど、いまが大切な時期なんだから!」 「遊びじゃないのにー!」  こうしてオレ後藤孝二は音楽界に衝撃的なデビューを飾り、のちに「失恋ソングの帝王」と呼ばれるようになった。チクショー! <了>
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加