あいつが来る

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あいつが来る

「助けてくれ!」  大きな振動が体を揺らし、何かと思えば一人の小薄汚れた服を着た男が私の服を強く掴んでいた。男の目はひどく怯えたように小刻みに震えている。 「なんですか?」  正直、こういう人に関わると碌なことがない。どうせホームレスか何かが金でも貰いにきたのだろうと思い、突き放すように聞いた。服を掴んだ手を引き離そうとしたが、この男のどこにこんな力があるのか、全く離さない。 「あの、僕追われてて……もう、もう来てるんですよ」  不安定な声色で目玉をぎょろぎょろと動かしながら男は言う。正直、気味が悪い。一応周りを見てみるが、不審な動きをしている人はいない。 「追われてるって誰に?」 「うるさい!」  突然の大きな声に私はびくりと肩を振るわせる。男は取り繕うような笑顔で私を見た。 「違うんです。あなたに言ったんじゃないんです」  そして縋るように私の腕を強く掴み叫ぶ。 「お願いします、お願いします! 助けてください。あいつが来るんです!」 「はあ……」  そんなことを言われても、周りにおかしな人——ましてやこの男をつけまわすようなそぶりの人間はいない。つまりこれはアレだ。『壊れた人』だ。こういう類の人間には適当な返事をしてさっさとその場を去るのが吉だ。  私が安心させようと口を開いたその時、男は目を大きく開けて言葉を止める。 「あ」 「どうしたんですか?」  私の問いに、男は視線を動かすことなくパクパクと口を動かした。 「もう、来た」 「はあ?」  男はするりと私の腕から手を離すと、ふらふらと道路へ向かう。そして走るように車の前に飛び出した。 「えっ」  驚く暇もなく男の体はまるでおもちゃのようにポーンと跳ね飛ばされる。地面に叩きつけられると、男の体からゆっくりと真っ赤な血液が地面を広がっていく。怖くなった私は、足早にその場を後にした。あれはもう助からない。そう直感的に分かったのだ。 「なんなんだ、あいつ……」  突然意味の分からないことを言い出したかと思えば、目の前で車に飛び込むなんて。まるで私が悪いみたいじゃないか。しかし本当に周りにおかしな人なんていなかった。あぁ、これだから『壊れた人』と関わると碌なことがないのだ。  そして次はお前だ。 「誰だ⁉︎」  突然、聞き覚えのない声が耳元でして、勢いよく振り返る。しかし誰もいない。当たり前だ、見えるわけがないのだから。 「なんなんだよ、ちくしょう」  後ろからチクチクと視線を感じる。まさか、私があの男を突き飛ばしたと疑われているのだろうか。そう思い振り返るが、やはり誰もいない。そりゃそうだ。もうここにいるんだから。 「誰なんだよ……」  耳元での声は止まない。誰かが私の後ろにいる。さっきの男の亡霊だろうか。だとしたら八つ当たりにも程があるぞ。だって私は何もしていないのだから。不安を振り払うようにズンズンと足を進める。おかしくなっているんだ。あの男のせいで。脳裏にあの男の顔が浮かぶ。そうさ、私が見捨てたんだ。 「だから私のせいではないと言ってるだろう!」  脳裏に浮かぶあの男の死体がニヤリと笑った気がして、やり場のない怒りを壁にぶつけた。壁を殴った手がヒリヒリと痛む。もうすぐ、すぐにでも来るぞ。あと十分。  そう耳元で言われた瞬間、言いようもない不安が胸の中を満たした。あと十分。一体何がなのか、全く見当もつかないのに急がなくてはいけない気がした。脳裏に焼きついた男の死体が俺を見て言うんだ。「もうすぐ来るぞ」と。  そうだ、早くしないと来てしまう。さあ急がないと。 「ちくしょう、どうしたらいいんだよ」  頭の中がうるさい。早く、早くと声が私を焦らせる。耐えきれなくなって私は壁に頭を打ちつけた。 「黙れ!」  痛い。打ちつけた頭がジンジンと痛む。不思議と頭の中にいた何かが遠ざかっていくような気がした。しかし何かはまた私の側へやって来る。そうだ、早く逃げないと追いつけれてしまう。あと十分。あと十分で。 「早くしないと、早くしないと……」  再び頭を強く打ち付ける。しかしあいつは止まらない。脳裏に浮かぶ男が倒れたまま私を見る。「そんなものでは振り払えないぞ」と。ならどうしたら良いというのか。私が悩んでいる間にも、カウントダウンが進んでいく。  あと七分……。あと六分……。鼓動が耳の奥で大きく響き始めた。  私の怯えを楽しむようにゆっくりとカウントされる。捕まったらどうなる? 死ぬのか、あの男のように。それだけは嫌だ。 「私が何をしたって言うんだ……!」  あと四分……。あと三分……。心臓の鼓動が、私の頭を締め付ける。 「なんなんだ。やめてくれ、頼む」  懇願し訴える私の声を無視してカウントは進んでいく。焦る頭では何も思いつかない。しかし考える隙をあいつは与えない。無駄だからだ。振り払う方法なんて存在しない。ならばどうすればいいか。男は言った。「答えはさっき見ただろう」と。 「あ……おい、あんた! 頼む、助けてくれ! お願いだ!」  来る。もう来る。男の顔がニヤリと歪む。そうさ、逃げられやしない。 「お願いだ……あいつが来るんだよ!」  こんなことでは振り払えない。なぜならアレは私だからだ。 「違う。私じゃない!」  私は私から逃げられない。そうだ。最初からここにいるからだ。自分から逃げられる奴なんて存在しない。逃げられるとすれば方法は一つだ。分かるだろう? 「違うんだ、あんたに言ったんじゃない……」  もう来るぞ。もう来るぞ。 「あぁ、もう来た」  カウントダウンは終わり、私が来た。私はふらふらとした足取りで道路に向かう。脳裏に焼きついた男の顔が苦しみに染まるのが見えた。あれは私だ。私もそうなる。  クラクションがけたたましく鳴り響き、運転手の驚いたような顔が目に入った。申し訳ない。申し訳ない。男が言う。「申し訳ない」と。  強い衝撃と鈍い痛みが体を貫く。地面に叩きつけられた私は、ふう、と小さく息を漏らした。雲ひとつない空がだんだん白んでいく。体に力が入らない。  体から抜けていく血液と共に、あいつは私から流れ出てく。 「良かった」  私が安堵した時、一人の男と目が合った。私が助けを求めた男だ。男は困惑と恐怖が混じったような目で私を見つめたあと、足早に遠ざかっていく。あぁ、きっと彼も。そう、あなたは悪くない。  私の抜け切った空っぽの私は、ゆっくりと目を閉じる。 「……申し訳ない」  ポツリとこぼした謝罪の気持ちは、冷たい風にさらわれて消えていった。  優しいあなた、どうか逃げて。あいつが来る。
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