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「ひゃ、100万?!」
真冬の夜の居酒屋の真ん中辺りの席で、莉緒が驚いて声を上げた。
そこかしこで広げられていた宴会の騒がしさがピタっと止まる。居合わせた客がこちらの会話に耳をそばだてたようだ。
「お前なぁ」
莉緒の向かいで、枝豆をつまみに飲んでいた陽斗が頭を抱え、テーブルに伏せた。
「は、陽兄が、100万本の花がどーのこーのって、あの有名な歌を歌ったんだ。へぇ」
誤魔化してみたが、無理がある? 辺りを伺う莉緒。澄んだ瞳をオドオドと動かした。
「それでさあ──」
「あれ、何の話してたっけ?」
「そう言えば──」
店のざわめきが戻る。
ホッとしたところで、本題だ。声を落として、前のめりになって訊ねた。
「陽兄、そんな大金、本当に彼女に渡したの?」
頭を抱え、伏せたままの陽斗。そのまま頷いた。
「マジかぁ……」
脱力して、背凭れに凭れる莉緒。目の前の陽斗を呆れてまじまじと見つめた。
十も年上の近所のお兄ちゃん。三十二になったこの頃恋人ができた。クリスマスプレゼントには何をあげたらいいのか、はたまた彼女の誕生日プレゼントに何をあげたらいいのか、やたら莉緒に相談してくるようになった。
小さい頃に遊んでくれたり、勉強をみてくれたり、の恩義があるから相談にのる莉緒。
お礼に居酒屋でご飯を奢ってくれるようになったのだが、プレゼントの相談のときに聞く彼女の印象が噓くさい、と感じていた。
曰く、色白でフワフワしたロング巻き髪。
曰く、まつげが長くうるんだ瞳。
曰く、儚げな出で立ち。
曰く、誰にでも優しくて、天使のような人。
曰く、天使のような笑顔。
聞けば聞くほど、そんな女が本当にいるのかな? と、莉緒は感じていた。
その彼女がある日、陽斗に相談したのだという。地方の実家にいる父親が倒れ、手術代と入院費で100万円かかるが、用意できないのだと。
陽斗は一も二もなく100万を手渡した。彼女を救いたい一心で。
その渡したのが半年前で、彼女とは連絡がつかないらしい。
今日は奢ってもらうことはしていないのに、居酒屋で奢るとのこと。来てみて聞いた話がこれだった。
詐欺じゃん。
すぐに悟ったが、落ち込む陽斗に莉緒は告げられなかった。
「彼女の実家はどこなの?」
こんな所で、うだうだしていないで、さっさと捕まえに行くべき。莉緒ははっぱをかける気で聞いた。のに、
「……知らん」
と、返ってきた。ため息がでる。何も知らないで、よく大金を渡せる。彼女より、陽斗の方がよっぽど天使だ。
「警察に届けたら?」
莉緒の提案に、ガバっと顔を上げる陽斗。
「やっぱり、そうか。きっと彼女、何か遭ったんだよな」
そっち?
お金が戻ってこないかもしれないのに。もう二度と彼女が陽斗の前に姿を現さないかもしれないのに。まだ彼女の心配ができるの?
呆れて何も言えなくなる莉緒だった。
一週間がたった。仕事を終え地元の駅から自宅に向かう。冬の寒さに肩をすぼめて建売住宅が並ぶ道を帰ってきたとき、玄関先に二人の人影が見えた。誰かいる、と身構えながら玄関に近づく。
「莉緒お帰り」
明るい陽斗の声がして、人影の一人が陽斗だったのか、と安心する。
「お帰りなさい」
知らない女の人の声がして、そちらを見る。
月明かりに照らされた白いコート姿の女性。フワフワしたロング巻き髪で色白のその人が陽斗に添うようにいた。どうやら、今しがた隣りの陽斗の家から出てきたところのようだ。
陽斗の傍にいるのが例の彼女だ、と察した莉緒。月明かりに照らされた様は、確かにそこに見えているのに、実体がそこにあるのか疑いそうになる。陽斗が「儚げな出で立ち」と言ったことに納得がした。
陽斗は照れたみたいに頭を掻いた。
「お礼に来てくれたんだ。やっとお父さんが落ち着いたからって」
「え、お金は?」
「少しずつ返してくれるって」
そうなんだ。詐欺じゃなかったのかな? 莉緒はひとまず、胸をなでおろした。
「で、これから彼女の実家に行くんだ。家族に紹介してくれるって」
「い、今から?」
「うん。明日は日曜だけど、遠いから、今から行く方がいいって」
な、そうだろ。とばかり陽斗が彼女に振り返る。彼女は柔らかく笑ってそれに答えた。
ふうん、本当にこんな天使みたいな人がいるんだ。莉緒が感心して駅に向かう道を開けるために、端に寄った。
「じゃ、行ってくる」
幸せそうな笑顔を莉緒に見せると、駅に向かって歩き出す陽斗。
「行ってらっしゃい」
と、莉緒は手を振った。
もさっとした陽斗に、美しい彼女。これはこれでお似合いか、と後ろ姿を見送っている莉緒に彼女が振り返る。
ニヤリと笑った顔は、ゾッとするほど冷ややかだった。
「陽兄、待って!!」
莉緒の声は届かなかった。引き止めるのが遅かったのか、闇夜にとけたように二人の姿が見えなくなっていた。
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