3,等価交換

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3,等価交換

「え? ちょっ、え?」  隆史は一瞬、自分の身に何が起こったのか理解が追いついてこなかった。目の前には目を釣り上げた女のバーテンが、彼を睨み付けた後に鼻を鳴らして奥に引っ込んでいったが、その姿は何処か過去の記憶にリンクする。 「とう――お客様。大丈夫ですか?」  男のバーテンがカウンターから出てくると、隆史の顔をタオルでゴシゴシと拭いた。しかし、なにやら面倒になったのか、後は自分でやれと言わんばかりにタオルを手渡され、彼はびしょ濡れになったスーツの上着を拭いた。 「ちょっとトイレに……」  と、隆史が言うと、男は「あちらです」と店の奥を指差した。心なしか接客が雑になっているのを訝しみながらも彼は席を立った。  トイレのドアノブはヤケに低い位置に付いていたが、中は清潔に保たれている。鏡の位置もやはり少し低い。隆史は濡れて透けている頭皮を隠すようにスタイリングしてから、たった今起こった出来事を熟考してみたが、ビールをぶっかけられた原因が分からずに暫く煩悶した。そして、自分を睨みつける女の顔に僅かな既視感を覚えながら首を傾げトイレから出ると、彼女は何事もなかったかのようにおしぼりを差し出してきた。笑顔である。 「あ、ありがとう」 「いえ」  隆史は再びスツールに腰掛けてから、今度はウイスキーをストレートで頼んだ。 「マッカランの十二年です」  男はそう言ってストレートグラスに注がれたウイスキーとチェイサーをスッと差し出す。隆史はそれを一口飲むと胃がカッと熱くなり、些かの落ち着きを取り戻した。そう、冷静沈着に物事を判断し分析すれば、大抵のことは説明がつく、彼はそう考えていた。 「先ほどはすみません、失言でした」  何が悪かったのかサッパリ分からなかったが、隆史はとりあえず謝罪をした。それが営業マンとして培った唯一無二の安全策であることは、社会人としてたっぷり身に染みている。 「いえ、コチラこそ。ほら心美、お前も謝れ」  と、男が言った。女は多少、不服そうにしながらも「ごめんなさい」と、ぶっきら棒に謝罪した。 「良いんです、それより心美さんとおっしゃいましたか? うちの娘と同じ名前です、もっともうちのはまだ中学生ですがね」  と、隆史は言った。 「あ、ああ、そーなんですか、奇遇ですねえ」  と、男は言った。  隆史は注意深く言葉を選びながら男に話しかけた。そして、バックバーに並んだ洋酒や、注文したウイスキーのラベルを観察するフリをしながら、女の行動を気配で追っていた。彼女は視界の端でボトルを丁寧に拭きあげている。数分前に客にビールをぶっかけた事など、まるで夢幻であったかのような佇まいである。 セクハラか――。  彼の脳裏に過ぎったのは、女の容姿を褒めたことによるハラスメント、つまりセクシャルなハラスメントだった。たどり着いてみればそれ以外の理由は皆無である。しかし、それが店を訪れた一見客に行われた蛮行であれば、普通の客ならば怒って帰るのが普通だろう。だが、そのタイミングはすでに逸している。  面倒な世の中になったものだ。と、隆史は心の中で嘆いた。誰が言い出したのか知らないが、男女平等などと謳っている割には女性専用車両だの、セクハラだのと女に有利な社会に世界は傾いている。    ――男性専用車両はどうしてないんだ?    ――『あなた最近、髪が薄くなったわね』と嘲笑する女上司はハラスメントにならないのか?  ――生理休暇? 子供が風邪? その尻拭いをしているのは我々男じゃないのか? それに対する感謝はないのか? お前らは辛いことを男に押し付けたいだけだろ? 「冗談じゃないよ……」  隆史は吐き捨てるように呟くとウイスキーを一気に煽った。そして、次の酒を頼む直前にハッと我にかえる。 「あの、カード使えますか?」  と、彼は男に聞いた。財布には確か四千円ほどしか入っていない。 「いえ、カードは使えません」  と、男は言った。隆史はざっくり頭の中で計算してから男にメニュー表を求めた。あと一杯くらいなら頼めるかも知れない。 「どうぞ、コチラです」  と、言って男は皮表紙のメニューブックを隆史に手渡した。細かい文字でビッシリと酒の名前が羅列している。彼は左上に記載されたドラフトビールの横に視線を移した。    ドラフトビール・・・・・・・洗濯物を畳む 「え?」  と、隆史は素っ頓狂な声を出した。無理もない。本来ならば料金が記載される筈の場所に、『洗濯物を畳む』などと意味不明の文言が記されている。彼は一度視線をあげて男を一瞥すると、他のメニューに目をやった。  マッカラン 十二年・・・・・・・ゴミ捨て  ラフロイグ 十年 ・・・・・・・風呂掃除  アードベックTEN・・・・・・・掃除機 「あのー、これは一体……」  と、隆史は聞いた。すると男は、我が意を得たりといった様子で頷いてみせる。隣の女も薄い微笑を浮かべながら妖艶に目を細めた。その仕草が妻と重なり心臓が鷲掴みされたような感覚に陥るが、思考を掻き消すように男が話をはじめた。 「当店では物々交換ならぬ、家事交換。つまり、家事育児との等価交換を行っております。これは、日本政府が東京都に要望した特別支援措置なのですが、ご存知ありませんか?」  男のバーテンは澱みなく、ドラマのセリフのようにスラスラと説明して見せたが、隆史には何のことか理解が追いつかない。「は、はあ……」などと間抜けな相槌を打つと女が思わず吹き出した。 「つまりですね、いくら男女平等を訴えたところで家事育児は女の仕事だと、そんな先入観は改善される余地がない、もはや遺伝子レベルで組み込まれているこの悪しき慣習を根本から改革する為には、一にも二にも実践あるのみ。まずは男に家事や育児の過酷さを体験してもらおう。そういった試みでございます」 「あ、えっと、つまり僕はビールを一杯と、ウイスキー、マッカランを一杯飲んだから……」  と、言いながら隆史はメニューブックに目を落とす。 「洗濯物を畳んで、ゴミ出しをする?」 「おっしゃる通りでございます」  と、男が言った。 「あの、それではこの店の売り上げは……」 「東京都からの補助金で賄っております」  と、女が言った。  隆史は頭をフル回転させて、状況整理に全ての神経を注ぎ込む。これは何かのドッキリ、あるいは詐欺、ぼったくりの類ではないかと疑うが、隠しカメラは見当たらないし、金品の要求もされていない。それどころか男の言う通りならば、飲食代金は無料なのである。 「あの、あなたのお名前は?」  と、隆史は男に聞いた。すると、先ほどまで俳優のように流暢な日本語を話していた男が、モゴモゴと口籠もり、小さな声で「つよし」と言った。  隣の女がまたも吹き出し、隆史は目をグルグル回しながら右斜め上を向く男を見つめながら、息子のツナグを思い出していた。
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