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4,適材適所
久しぶりに再開した須田香里奈は、友人の腕力ゴリラとすぐに付き合いを始めた。隆史が知るだけでも三組のカップルが誕生した同窓会だったが、その後の経過までは把握していなかった。
香里奈はとても美しく、東京大学を出るほどの秀才で、卒業後は大手製薬会社で新薬の研究をしているらしかった。そのような才女が偏差値四十にも満たない腕力ゴリラと恋人関係になった理由は分からなかったが、そのころ隆史には美穂という恋人がおり、将来の約束もなんとなく済ませていた。香里奈と比べれば何の変哲もない凡庸な女は、隆史の人生や生き様を鏡に映したような有り様ではあったが、しかし彼はそれが自分らしいとも思っていた。
それなのに――。
「私ね、隆史が好きになっちゃったみたい……」
と、香里奈は唐突にそんな事を言った。
相談があるからと呼び出された地元の居酒屋。腕力ゴリラの事だろうとタカを括り、油断していたところで、彼は食べていた枝豆を喉につまらせた。
「隆史ってさ、すごく気遣いが出来て周りが見えてるし、いつも誰かのために動いてるでしょ? なんか、結婚するならそんな旦那さんが良いなって思ってたら何だかドキドキしちゃって苦しいの、隆史のことばかり考えちゃって……」
と、香里奈は頬を染め、俯きながら言った。その姿は今まで見てきた女の中で一番可愛らしく、芸能人よりも遥かに美しい天使だった。
「いや、ああや、ちょっ、でも正広が、ほら」
「マー君は男らしくて、ついて来いってタイプだから、それも素敵なんだけどね、やっぱり将来のことを考えるとちょっと……」
将来――。隆史は目の前に座る美しい女との未来を夢想した。仕事を終え、家に帰れば香里奈が食事を作って待っている。さぞや美味しいご飯だろう。子供だって可愛いに違いない、彼女の遺伝子を受け継げばそうに決まっている。良くも悪くもなんの特徴もない隆史のそれは、香里奈に上書きされて跡形も残らない気がした。
「だめ? ……かな」
香里奈はそう言って隆史の手を握る。彼女の目は潤み、指が震えているが、それは隆史の震えだったのかも知れない。
「いや、ダメ、じゃない」
それは彼が決断した中でも、唯一と言っても過言ではない破天荒な選択だった。親友の彼女を強奪し、現行の恋人を裏切り、仲間たちから村八分にされても文句の言えない所業であることを、隆史は十分に理解した上で半年後には籍を入れた。
盛大な結婚式を挙げ、二人は大いに祝福された。腕力ゴリラも、他の仲間も、隆史の選択を責める人間はいなかった。親友って素晴らしい、人生って美しい。隆史は絶頂期にいた。自らの勇気を賞賛した。
それが誤算だった――。
香里奈はまるで家事の出来ない女だった。
家の中は荒れ、ゴミ屋敷になるまで一年と掛からなかった。翌年に娘が生まれると、そのタイミングで住宅ローンを組み、中古のマンションを購入した。広めの三LDKは収納スペースもしっかり完備していたが、半年で床は見えなくなり、テーブルの上は物で溢れ、トイレからは異臭がした。
夕飯には冷たい惣菜が並び、隆史が僅かな苦言を呈すると、それすら用意されなくなった。長男が産まれてからは夜の生活もなくなり、比例するように会話もなくなっていく。コミュニケーションツールはラインで、必要最低限のやり取りしか行われない日々。このままでは良くないと、隆史がもう少し家を綺麗に出来ないか、と、懇願するようにお願いしてみた。
「は? 私も働いてるんですけど」
それは知っている。非常に福利厚生の充実した会社であり、時短や育休などを香里奈は存分に利用していた。だからこそ、隆史に比べたら時間的猶予はあるのだ。
「私の方が稼いでるし、むしろなんで残業ばっかりしてそんなに安いの?」
隆史は決して薄給ではない。しかし、香里奈のそれと比べれば劣るのは勿論、時給換算すると尚更に悲惨な結果に彼は頭を抱えた。本来ならば自らの給与だけで生活し、女房には家を護って欲しかった。隆史の実家もそうだった。しかし、現実には彼女の方が学歴も年収も、社会人としての地位も数倍上であり、辞めてくれなどと言えるはずもない。
次第に彼女の態度はエスカレートしていき、隆史は奴隷のような扱いを受けていく。そして、一つの疑念が頭を掠めた。
――コイツは自由に振る舞う為に俺を選んだ?
もし、香里奈が腕力ゴリラと結婚していたら、こんな態度は取らなかっただろう。見越していたのだ。隆史ならば何の文句も言わない蝋人形のような夫になることを。
それに気づいてからは妻を愛する気持ちは、旅行先に忘れてきた下着のように薄れていった。あるいは、そんな気持ちは初めからなかったのかも知れない。真っ直ぐなレール、山も谷も存在しない、なだらかな道を走り続けた人生、その途中で唯一の分岐点を間違えた。隆史はそう考え、屍のように日々を過ごしていった。
隆史は結局、ビールを一杯とウイスキーを三杯、ミックスナッツを平らげてから店を出た。
「ありがとうございます」
と、店員の二人が声を揃えて頭を下げた。
「これ、もし約束を破ったらどうなるんですか?」と、隆史は尋ねる。
「無銭飲食で掴まります。前科一犯、会社はクビになるでしょうね、まあ、それがなんだと言う話ですが」と、言って男は笑った。
「また、会えますか?」
と、隆史が聞くと「直ぐに会えるよ」、と女が言った。彼はその答えに満足して店を出る。トンネルを抜けた先には真っ新な星空が広がっていたが月は見えない、どうやら新月のようだ。隆史はフッと笑みを漏らしてネクタイを緩めると、我が家に向かって歩き出した。
「ただいまー!」
隆史が勢いよくリビングに入ると、洗濯物の山に突っ伏して寝ている香里奈が、静かに寝息を立てていた。スウスウと規則正しく背中が揺れている。その横顔に隆史はそっと触れてみた。もう、妻も若くないことを痛感し、時の流れを感じた。起こさないようゆっくりと抱き上げると、その軽さに胸が締め付けられる。
寝室のベッドに寝かせタオルケットを掛けてやると、隆史はワイシャツの腕をまくり洗濯物を畳み始めた。それが終わるとシンクに溜まった洗い物を済ませ、トイレ掃除を入念にした。夜中なので掃除機を掛けるのはやめて、コロコロで家中を這いずり回り、満足のいく仕上がりになる頃には窓の外が明るくなっていた。
大量のゴミ袋をマンションの集積場に運び終え、まだ何か捨てる物が無いかと悩んだ末に、隆史は緩んだネクタイをゴミ箱に投げ捨てた。
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