5,今夜きみは僕のもの

1/1
前へ
/5ページ
次へ

5,今夜きみは僕のもの

「こっちだったような、いや、あっちかな?」  隆史は夜道をウロウロしながら辺りを見渡したが、一年前に訪れたバーを見つけることが出来なかった。 「そんな店あったかなぁ」  と、香里奈は疑わしげな視線を隆史に投げる。今日は彼女の誕生日で、久しぶりの夫婦水入らずだった。 「トンネルがあるんだよー、確かあの辺りに……」  隆史は会社を辞めて専業主夫になっていた。元々、家事や育児に向いていた彼は、常に家を清潔に保ち、手料理を家族に振る舞っている。世帯年収は大幅に下がったが、家庭内の雰囲気は過去のそれとは比べようも無い。 「もう疲れたー」 「まてよ、絶対に見つけるから」 「じゃあ、抱っこしてよ」  と、言って彼女は手を広げた。 「ばっ、ばか、そんなこと出来るかよ」 「前はやってくれたじゃん」 「は、はあ、やってないよ」 「ふふ、ねえ、もうその店は潰れちゃったんじゃない? 他に行こーよ」  香里奈はふと顔を上げて微笑むと、そっと隆史の腕に自分の腕を絡めた。柔らかな指がしっかりと彼の腕をつかみ、離れたくないという思いが込められているかのようだった。 「おかしーなー」  隆史は呟きながらも、右半身に伝わる彼女の温もりに些かの緊張感を覚えていた。香里奈に告白されたあの夜、あの安居酒屋で手を握られ、見つめられたあの瞬間、その記憶がそっと戸棚の奥から蘇る。  彼はもどかしいほど彼女が愛おしくなり、その場で抱きしめたい気持ちをグッとこらえて夜空を見上げると、一年前には見えなかった月が、透き通った空気の中に鮮やかに浮かんでいた。   「今日は満月だね」  香里奈の言葉に彼は優しく微笑み、そして頷いた。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加