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5,今夜きみは僕のもの
「こっちだったような、いや、あっちかな?」
隆史は夜道をウロウロしながら辺りを見渡したが、一年前に訪れたバーを見つけることが出来なかった。
「そんな店あったかなぁ」
と、香里奈は疑わしげな視線を隆史に投げる。今日は彼女の誕生日で、久しぶりの夫婦水入らずだった。
「トンネルがあるんだよー、確かあの辺りに……」
隆史は会社を辞めて専業主夫になっていた。元々、家事や育児に向いていた彼は、常に家を清潔に保ち、手料理を家族に振る舞っている。世帯年収は大幅に下がったが、家庭内の雰囲気は過去のそれとは比べようも無い。
「もう疲れたー」
「まてよ、絶対に見つけるから」
「じゃあ、抱っこしてよ」
と、言って彼女は手を広げた。
「ばっ、ばか、そんなこと出来るかよ」
「前はやってくれたじゃん」
「は、はあ、やってないよ」
「ふふ、ねえ、もうその店は潰れちゃったんじゃない? 他に行こーよ」
香里奈はふと顔を上げて微笑むと、そっと隆史の腕に自分の腕を絡めた。柔らかな指がしっかりと彼の腕をつかみ、離れたくないという思いが込められているかのようだった。
「おかしーなー」
隆史は呟きながらも、右半身に伝わる彼女の温もりに些かの緊張感を覚えていた。香里奈に告白されたあの夜、あの安居酒屋で手を握られ、見つめられたあの瞬間、その記憶がそっと戸棚の奥から蘇る。
彼はもどかしいほど彼女が愛おしくなり、その場で抱きしめたい気持ちをグッとこらえて夜空を見上げると、一年前には見えなかった月が、透き通った空気の中に鮮やかに浮かんでいた。
「今日は満月だね」
香里奈の言葉に彼は優しく微笑み、そして頷いた。
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