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【明日の夜、天使をいただきに参る。──怪盗A】  苫米込(とまごめ)美術館は騒然となった。世を騒がす怪盗の予告状が先日、メールで届けられたからだ。館長が警察へ連絡し、すぐに警備が固められた。予告された当日の夜は、思っていたより騒々しくなった。ものものしい警察の人員に囲まれてすっかり疲弊した館長は、ハンカチで汗を拭い私に言った。 「美見(みみ)くん。君はもう帰ってもいいよ?」 「いえ。私も残ります」 「僕らにできることは、もうあまりなさそうだけど」 「私は館長づきの秘書です。騒ぎが収まるまではお手伝いいたします。それに──あの方に、誰かがついていたほうがいいと思いますので」  ごま塩頭の館長は不安げに私をみる。大卒あがりの私のような小娘が、この場に残ってなんになると思われているのかもしれない。けれど私が残ると言ったのには理由があった。 「エクセレント! これがかの有名な天使像か……! 素材は大理石と純金だね? ふうむ、こんな状態で見るのでなければ、実に素晴らしいのだが」  当館最大の展示品「天使像」の前で、茶色いチョッキ姿の怪しげな男が熱弁をふるっている。彼の名はポアロ。犯罪心理学者にして有名な探偵らしい。私にはただのくたびれたおじさんにしか見えないが、警察の求めに応じ派遣されてきたというから、なにかしらの実績があるのだろう。ポアロは天使像の警備のためにやってきた。はたして本当に天使像を守る助けになるかはわからないが、来てしまったものは仕方がない。 「天使像」は部屋の最奥、壇上に神々しく設置されている。最高級の白大理石に本物の金飾りをあしらった美青年の立像で、時価数十億円といわれる。誰もがうっとり見惚れる美麗な笑みで、美青年の天使は私たちのことを見下ろしていた。像の重さは二トン、大きさは二メートル近くもある。私なら、これを盗もうとは絶対に思わない。けれど予告状を送ってきたのは、数々の有名美術館から美術品を盗んでいる怪盗だった。どれだけ不可能に思えても、この巨大な像を盗む方法がなにかあるのだろう──ぼんやり考えていて、はっとした。ポアロが天使像の段にのぼり、像に触れようとしていた。 「すみません、お手を触れないでください!」 「おっと、申し訳ない。触る気はなかったのだが、つい」  段を降りた男は恥ずかしそうに笑んでいる。ちょび髭をいじり「灰色の脳細胞が刺激されてね」と、意味不明なことをのたまっている。いい年をしたおじさんなのに小学生みたいな無邪気さをもつ人だ。天使像からポアロが十分に離れたのを確認し、私は内心で唸っていた。このポアロという男、いかにもあやしい。警察から寄越されたというだけで中へ入れてしまったが、怪盗は実はこの人だという可能性もある。怪しまれずに厳戒態勢の美術館へ入るなら、関係者を装うのがてっとり早い。味方のふりで、怪盗がすでに中へ入りこんでいるかもしれないではないか──? 気づかれないようにポアロから距離をとった。戸惑い顔の館長の腕を引き、警察の姿を視界の端に探していると、折よく展示室の入り口からふたりの男性が歩いてきた。  ひとりは鋭い目つきの銘苅(めかる)警部だ。三十代のエリートで、若さの残る顔には張りつめた緊張感がある。完璧に後ろへ流した髪に、眉間には一生消えそうにないしわ。ストイックで真面目そうな見た目から、私は彼に絶大な信頼をよせていた。実際、美術館へ来てからの彼はきびきびと働いている。ポアロという怪しげな人物を連れてきたのは銘苅警部だが、その点をのぞけば今のところは申し分ない。連れ立って歩いてきたもうひとりの男性に見覚えはなかった。知らない男性が軽やかに笑いかけてくる。 「お嬢さん、そちらのポアロ氏を警戒されているようですが、その必要はないでしょう。彼はK大学の心理学の教授です。それを示す証拠が、外見からも無数に読み取れます。まあ、多少つましい生活を送っておられるようですが、悪事を働くほど貧窮しているわけでもなさそうです。心配いらないかと」  ポアロがむっとした顔で私の前に立つ。 「失礼。初対面だと思いますが、あなたは?」 「ええ。もちろん初対面です。僕はあなたのお名前や職業を、事前に銘苅警部よりうかがってきました。その上で、あなたが犯罪者ではないことをこの目で確かめたのです」  館長が汗をぬぐい「えっと……」と銘苅警部に助けを求める。人を殺せそうなほど鋭い銘苅経警部の目は、憎々しげに新顔の男性へそそがれていた。銘苅警部の声は冷ややかだった。 「私立探偵のホームズさんです。上層部から寄越された追加の人員ですが、無視してくださって構いません」  館長は不可解なものを見る目で首をかしげる。 「ほーむず? あなた、どこかで……?」 「ははあ、おそらくテレビで僕のことをご覧になったのでしょう。ワイドショーやバラエティ、教育番組にも最近は出演しておりますので」  館長が奇声をあげた。 「思い出した! そう、ホームズ先生だ! 教育番組で見ましたよ。たしか、バイオリンを弾いておられたような」 「ふん。ただの趣味ですよ。お恥ずかしいかぎりです」  最近の芸能事情どころかテレビを半年以上観ていない私は知らなかったが、どうやらこのホームズという男、かなりの有名人らしい。インテリ芸人のようなものだろうか。そんな芸能アイドルみたいな人を連れてきて、銘苅警部はいったいどういうつもりなんだろう。怪盗に美術品が狙われているのに、お遊び感覚のインテリ芸人に来られても困る。 「お遊び感覚のインテリ芸人に来られても困る!」  ポアロが私の内心と同じ言葉をそっくりそのまま口にしたので、ぎょっとした。館長は不安げに双方を見たが、どうすればいいかわからないようだ。ホームズが鼻で笑う。 「お遊びかどうかはいずれお分かりになるでしょう。この美術館へ来る前から、僕には事件の手がかりが見えているのです」  これには銘苅警部が鋭く反応した。 「どういうことです?」 「ふん。今日狙われるのは、この天使像ではありません。天使と聞いてまっさきにこの像と思うのは愚かなことです。この像は二トンもある。どう理性的に考えても、常人に盗める代物ではありません」  ホームズは絶句する私たちを見回し、にやっとした。顔はアイドルなみに整っているが、性格はひん曲がっていそうだ。ホームズの声は朗々と響く。 「天使とは、様々なものを連想させる概念です。比喩的なものから、宗教的な意味あいまで──純粋なもの、赤ん坊の比喩としてもよく使われる言葉ですね。そう、つまりこの場合の天使とは」  私は息をのむ。館長も気づいたのか、はっとした顔になる。うちの美術館には「赤ん坊」の名を冠した目玉展示がひとつある。非常に高額で希少だが、「天使」と名付けられておらず見逃していたもの。それは──。 「今夜狙われるのは『赤子の涙』。展示室Bにある、時価五億円のダイヤモンドです」
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