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 私はホームズを警備室へ案内した。そうしてほしいと本人に頼まれたからだ。警備室は狭く、カメラ映像を映したモニターが壁一面に並んでいる。ホームズは警備員を全員追い出すと、我が物顔で真ん中の椅子に陣取った。ふんぞりかえり、映像を余裕の表情で眺めている。その視線の先にあるのは展示室B、「赤子の涙」がある部屋だ。精悍な横顔に私はおそるおそる話しかけた。 「銘苅警部、盗まれるのは天使像だと思っているみたいでしたね」  ホームズの推理を聞いた後、銘苅警部は天使像のまわりから人員をいっさい動かさなかった。「赤子の涙」のそばには元々、美術館の警備員がひとり常駐している。すでに人がいるのだから、警備を動かす必要はないと思ったのかもしれない。展示室Bの警護に向かうとホームズが言い出しても、冷ややかな目で「そうですか」と一瞥しただけだった。 「彼は僕のことを嫌っているんだよ。ただのインテリ芸人だと考えているんだ」  正直、私もちょっとそう考えている。ホームズは「それより」と首をかしげた。 「ポアロ氏が天使像の前から動かないのは、どういう了見なんだろう。彼は警察から派遣されてきたんだろう? 僕と同じように」 「ええ。そううかがっています」 「それなら、探偵としての実力はあるはずだ。盗まれる心配のない像の前から動こうとしないなんて。銘苅警部はともかく、ポアロ氏にはなにか考えがあるのか……?」  モニターに映るポアロは、天使像の前でさっきからお喋りばかりしている。警備についている人員がひとりずつ、入れ替わるように彼と話しては、また持ち場へ戻っていく。今は銘苅警部と話しこんでいた。そのとき、館長の姿がみえないことに私は気がついた。ホームズに付き添う私のかわりに、館長がポアロの面倒をみることになっていたのだが……視線を移すと、館長は展示室Bにいた。四方の壁にハガキサイズの絵画があり、部屋の中央に巨大なダイヤモンド「赤子の涙」がある部屋だ。館長は「赤子の涙」のすぐそばで警備員と話し合っている。ホームズの話を聞き、「赤子の涙」が狙われるのではと不安になったのかもしれない。二トンの天使像より、盗まれる可能性がありそうな宝飾品のそばにいようと考えるのは普通のことだ。ホームズの推理には一理あると私も思っている。銘苅警部はどうして人員を天使像のそばから動かさないのか。なにか明確な意図があってそうしているのならいいのだが──。  夜をつんざくけたたましい警笛の音がした。異常を見つけたら警備員が吹くことになっている笛だ。 「んっ!?」  ホームズが身を乗り出した。天使像の部屋のモニターが真っ白になっている。よくみると白い煙が充満しているらしい。火災報知器が鳴り、すべての展示室のシャッターが閉まり始める。私は慌てて警備室のパネルを操作し、すべての防火設備をオフにした。火災が起こると、館内のすべてのシャッターが自動で降り、展示室には窒素ガスが充満する仕組みになっている。窒素ガスの噴出までには猶予があるが、万が一警察の人たちが逃げ遅れでもして、展示室に閉じ込められたら大変だ。 「ホームズさん、これは……」  ホームズは天使像の部屋ではなく、「赤子の涙」の部屋のモニターを食い入るように見つめていた。火災報知器の音を聞いて慌てた館長が、そばにいた警備員を急いで天使像の部屋へ向かわせたところだった。「赤子の涙」に異変はみられない。怪しい人影もない。館長は外の様子が気になるのか、展示室の入り口へ歩いていく。部屋の外を窺っているらしく、館長の姿はカメラの死角に入った。展示室Bの監視カメラは「赤子の涙」を映すためのもので、手前の壁側は完全に映らない。館長はすぐに戻ってきた。「赤子の涙」に異変がないかを確認し、不安そうに部屋の外を窺っている。 「そうか!」 「え、ちょっと!」  ホームズは椅子を蹴とばし、あっという間に走っていった。追いかけようとも思えないほど猛烈なスピードだった。モニターに視線を戻すと、天使像の部屋の煙が晴れている。天使像は──無事だ。見るかぎり異変はない。ポアロと銘苅警部が咳こみ、像周辺に異変がないかを確かめている。「赤子の涙」の部屋にも異常はなさそうだ。相変わらず館長が手持ち無沙汰に立っているだけだ。危険がどこにもないことを確認し、私は天使像の部屋へ向かうことにした。  ж 「ポアロさん、銘苅警部!」  天使像の部屋へ入ると、銘苅警部が部下に指示を出していた。私をみて頷く。 「像は無事です。今から館内をざっと調べてきます。部下を残しますから、ここにいてください」  いったい何があったのか聞く前に、銘苅警部は颯爽と走っていった。 「無害なスモークが用意されていたようです」  ポアロが私の心を読み、教えてくれた。示されたのは部屋の隅で、小さな銀色の箱が転がっていた。いつの間にこんなものが仕掛けられていたのだろう。私は間近に天使像を観察した。素手で触って調べるわけにはいかないが、本物にみえる。 「その像は大丈夫です。犯人の狙いは、天使像ではなかったのですから」 「えっ。どういうことです?」 「犯人はあの煙がたかれた瞬間、目当てのものを手に入れたということです。私はあえて銘苅警部に、警備に穴を作るように頼みました。天使像の周囲の警備を動かさないように、と」 「それは……」 「心配いりません。犯人が誰かはすでにわかっています。犯行予告を聞いたとき、私は犯人が関係者として身を潜ませるだろうと考えました。ことを運ぶにはそのほうがスムーズですから。つまり、犯人は当日配備される警備か、あなた方美術館関係者か、あるいは私のような、巡りあわせでここへ来た人間の中にいる……そう考え、この部屋ですべての警備関係者と、美術館の方からお話をうかがいました」  心理ですよ、とポアロは目を細める。 「目の動きや表情、言動の端々に犯罪への手がかりは現れます。犯罪とは人が起こすもの。関係者から話を聞くことさえできれば、犯人はおのずとわかります。犬のように現場を嗅ぎまわり、砂粒のような証拠を集めなくてもね」 「な、なるほど。そういうものですか」 「ときに、ホームズさんはどちらへ?」 「そういえば。モニター室から走っていってしまって」  ポアロの顔が心配そうに曇る。私も不安になってきた。うちの美術館にホームズという怪しげな人物を野放しにしてしまった。大丈夫だろうか。彼が犯人だったらどうしよう。はやく見つけて動向を見張っておく必要がある。折よく警察官のひとりが駆けてきた。ちょうどいいと声をかけようとして、私は口を閉じる。警察官はこちらが不安になるほど慌てていた。 「た、大変です! 向こうで人が倒れています!」  ポアロが警察官の後を追ったので、私もついていった。銘苅警部もほぼ同時に遠くから走ってくる。青ざめた顔の館長も足をもつれさせ、こちらへやってきた。私は悲鳴こそあげなかったが、目の前に広がる光景をみて凍りついた。展示室Cの床に血が流れていた。そして──ホームズがうつぶせに倒れ、死んでいた。
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