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「ちょっと先生! ホームズ死んじゃいましたよ!?」
「いいんだよ、それで」
「いいわけないでしょう! シャーロック・ホームズは鍛えてるんです。バリツの使い手ですよ!? こんなあっさりやられるなんて……!」
「君ねぇ」
三十歳の漫画家の僕は、ペンタブから顔を上げる。編集の美見くん(推定二十代中頃、短髪のスポーティー女子)を振り返ると、来月出す予定の読み切り用ネームをみて眉をつりあげている。僕は今、締め切り間近の原稿を一睡もせずに進めている最中だ。腕も肩も痛いし、時間もないから静かにしてほしいのだが。ため息をつき、またペンタブ作業に戻る。
「知らなかったな。美見くんがシャーロキアンだったなんて」
「違います! でもこんなの、私じゃなくたって怒りますよ。先生、ホームズのファンにディスられたいんですか?」
「それは現代のインテリ芸人・ホームズさんであって、シャーロックなホームズじゃないから大丈夫」
「だいたいホームズがいないのに、誰が事件を解決するんです?」
「ポアロがいるだろ」
「先生、アガサファンも敵に回したいんですか……?」
「なんでだよ。犯人は館長。騒ぎが起きたとき、監視カメラの死角で小さな絵画を偽物とすりかえたんだ。館長には警察官に共犯者がいて、美術品を受け渡しているのをホームズに見られたんだ。それでホームズは殺された。ポアロが心理学的アプローチから、事件をすぱっと解決する──」
「もう、どうなっても知りませんからね」
美見くんはテレビをつけ、ネームを封筒に入れている。遠い目で彼女が眺めるニュースは、ちまたで話題の本物の怪盗「キング」の話だった。怪盗キングは、世界中の美術館で美術品を盗んでいる。犯行手口はあざやかで、今のところ手がかりのひとつもない。ここ日本でも、高価なものからさほど高くないものまで、節操なくあらゆる美術品が盗まれている。怪盗キングは具体的な美術品への予告状は出さない。そのかわり、次はどの国へ向かうという予告状を、盗んだ現場にカードで残していくのだ。最後に盗まれたのが半月前のイギリスの美術館で、次は日本と書かれてあったらしい。
「怖いですね。いつ盗まれるともわからないのに、国だけ指定されるなんて」
「まあ、僕らには関係ないよ。美見くん、時間大丈夫?」
「あ、そうだった! じゃあ先生、締め切り落とさないでくださいね」
「はいはい」
「そうだ。登場人物に私の名前使うのやめてください。あとでちゃんと変えておいてくださいよ?」
美見くんはそう言い捨てて慌ただしく去り、僕はまた原稿に集中する。あらかた作業が終わって伸びをしたとき、パソコンが英語のテキストメッセージを受信した。
【怪盗K: 次の美術品の候補は?】
すぐに仲間たちが英語で返しはじめる。
【怪盗P: Y県の銀化したローマンガラス椀がいい】
【怪盗Kn: N県のペルシア時代の皿はねらい目】
【怪盗R: TのK美術館のM! もうずっと言ってるだろ!】
ざっと書き込みに目を通し、僕もチャットに英語で参入した。
【怪盗B: T県にある天使像は?】
すぐに【ノー!】【あれはでかすぎ】【面白くない!】と否定が返ってくる。決定権のある怪盗Kが沈黙しているので、議論は続けられる。ものすごい速さで流れるチャットを見流し、僕はコーヒーを淹れるために立ちあがった。香ばしいブラックコーヒーの香りに目を細め、ふと考える。現代の怪盗はひとりではない。組織的な犯罪集団で、彼らは一般人を装いすばやく動く。実際の組織の大きさも、参加者の顔すらわからないままに犯行は進められていく。目線をあげると、チャットが止まっていた。
【怪盗K: 今回はBの案を採用します】
コーヒーを飲み、僕はパソコンの前に戻る。読み切り用のネームのなかで、天使像は盗まれなかった。けれどこれからは、何トンもある天使像が盗まれる手順を、実際に考え出さなければならない。現実的に、限られた人員と予算で可能な手段をだ。腕のみせどころだった。
──さて、どうしたものか。
漫画を描いていたときよりずっとわくわくした心持ちで、僕は仲間たちとの激しい議論に加わった。
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