第1章 植物状態

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第1章 植物状態

「起きなさい、璃々(りり)。もう着くから」  母の声を聞くまでもなく璃々は目を覚ましていた。右ウィンカーが点滅して、母の運転する車は左側車線から病院の門へ一気に滑り込む。  もう何回となく辿ったルートなのだろう。母の運転に迷いはなかった。  母は車を空いた駐車スペースへ入れるとエンジンを切る。後部席からジャケットと大きなカバンを取り出した。ビジネス用のバッグだ。  璃々もしぶしぶ助手席を降りた。 ピ! 母が車をロックする。 「・・・何でこんなとこにねえ・・・」  璃々が(つぶや)く。 「何か言った?」  母が聞き返した。転院するタイミングを無くしたんだと答えは以前に聞いていた。  それにしてもこの建物は何だろう。映画かなんかに出てきそうな古びた石造りのビルだ。建物の中央近くには尖塔(せんとう)のようなものさえ見えた。お城か?   エントランスの上の時計台にはこれも時代物の丸い時計が嵌め込まれている。12時になると鐘が鳴った。もっともそんな時間に来たことのない璃々は知る由もない。  玄関を入るとそこもまた石の床だった。古い磨りガラスの嵌まった観音扉を開けてロビーに入る。深緑色に塗られた床がずっと続いていた。  ここは外来受付と会計があるのだが、いつもガラガラだ。人がいない。こんなんで病院が成り立つんだろうかと璃々は思った。  ふたりはエレベーターを待って4階へ上がる。時代物のエレベーターは焦れったくなるほどゆっくりとドアが開いた。  ナースステーションで記帳をして、長い廊下を歩き出す。この廊下は群青色だ。消毒薬だけではない、何か薬剤の臭いがした。 「あんた、お姉ちゃんに会いに来るのどれくらい振り?」  母が璃々に聞いた。分かってるくせに、璃々は思う。こんなとこ車でもなけりゃ来れやしない。自宅から電車だと2時間は掛かる。車でも既に1時間が経っていた。  璃々は姉に興味を失っていた。姉は既に死んだも同然であり、自分は生きていかなければならない。気に掛けている暇はなかった。 「たまには顔見せて上げないと」  母はそう言ったが、姉は今も眠り続けている。璃々のことなど分かるはずもないのだ。  それでも母は週に一度は都合を付けてここへ来ていた。その車に便乗するだけで済むのに、璃々はもう1年は姉に会いに来ていなかった。  ちょうど病室のドアが開いて看護師が出て来た。暗い顔をした女が急に愛想笑いを浮かべる。 「ああ、瑠々(るる)ちゃんのお母様。いらしたんですね」 「お世話様です」 と母。 「今処置が終わりましたので、どうぞごゆっくり」 「それで、どんな具合でしょう?」  母が尋ねた。 「大丈夫ですよ・・・」  看護師はそれだけ言うと笑みをたたえて行ってしまった。大丈夫だということは、何の変化もないと言うことだろう。  だけど、母はまだ諦めていない。当然のことなんだろうと璃々は思ったが、正直そこまでの期待は自分にはなかった。  3年前だった。  家族はアウトレットモールへ買い物に来ていた。帰り道だ。父が運転する車には助手席には母が、後部席に自分と姉の瑠々が乗っていた。  突然父が大声を上げた。そして激しい衝撃が来た。車は滑りながら1回転して止まった。  道路を逆走してきた高齢男性の運転する軽自動車と正面衝突したのだ。  家族4人は緊急搬送されたが父が死んだ。そして姉が植物状態になった。  母と璃々はほとんど無傷だった。その時運び込まれたのはもっと小さな病院だ。それから直ぐ2人だけがこの病院へ転送された。  母と璃々が駆けつけた時には父は亡くなり、姉は今と同じ状態になっていた。  それから3年の月日が経つ。璃々は17歳になり、瑠々もまた17歳になっている。  病室にはシューシューと単調な機械音が響いていた。広い部屋だ。テレビがあり、シャワールームとトイレも付いていた。だが、いずれも瑠々には無用のものだ。  個室の費用は加害者が、正しくは加害者の加入していた保険会社が出している。  亡くなった加害者の奥さんが月に一度病室に見舞いに来ていた。今でも続いているらしい。その奥さんと母が出会(でくわ)して喧嘩になったことがある。 「月命日のお参りじゃあるまいし、ふざけるな! 瑠々はまだ生きてるんだから!」  母はそう言い放った。喧嘩ではない。奥さんはただただ恐縮するばかりだった。だが毎月の見舞いを止めることはなかった。  璃々はそのお婆さんを気の毒だと思っている。つくづく交通事故は罪深い。  あの時に父とともに姉も死んでいれば、今頃は新しい生活をしていただろう。なまじこんな状態になっているから、まだ事故の結果を引き摺(ひ ず)っている。  璃々は姉の顔を覗き込んだ。双子の姉瑠々はたくさんのチューブやコードに繋がれていた。切り開かれた喉にカニューレが差し込まれ、そこから延びたジャバラの回路が人工呼吸器に繋がっている。  瑠々は自発呼吸さえも出来ない状態で眠っていた。まさに生かされている。 「瑠々、今日はね璃々ちゃんも来てくれたのよ」  母はそう言って瑠々の顔を撫でた。 「瑠々はもうすぐ目を覚ます」  母はそう言った。瞼が痙攣する。指先が刺激に反応する。だが、それが覚醒への前兆なのか、単なる反射作用なのか、医者にすら分からない。  しばらくすると、母は花を買って来ると言い出した。 「花はいいでしょ、また次で」  璃々は言ったが母は、 「瑠々が目を覚ました時、好きな向日葵(ひまわり)があったら喜ぶ・・・」 そう呟いた。 「でもどこに花屋なんて」 「駅前まで行けばお花屋さんくらいあるでしょう。ちょっと行ってくるわ」 母はそう言って部屋を出て行った。  姉と2人きりになった璃々は参考書を広げた。模擬テストが近かった。そろそろ進路を決めなくてはならない。が、まだ決めかねていた。  静かだ。シューシューという人工呼吸器の単調な音が病室を余計静かにしている。  璃々はもう一度席を立つと、眠る瑠々のそばへ寄った。  自分と瓜二つの顔があった。よく似ているが姉の方が幼いような気がする。眠ったままだと年を取る速度が遅いのかも知れない。  姉の顔を見ているうちに璃々はあの頃のことを思い出した。4年前中学1年だった頃のことだ。  姉瑠々は私立の中学に通っていた。一方妹璃々は公立の中学に。同じ学校に行かせたくない、そう言う両親の思いが双子の姉妹の進路を変えた。  璃々は姉の制服が可愛いくて羨ましかった。公立中学は何も代わり栄えのしない紺色ブレザーである。  一方姉瑠々の制服は空色のワンピースにオレンジ色のリボンを襟に結ぶ。ハイソックスにもオレンジのラインが入っていた。  そう言う細部に拘った制服、それが姉の通っていた中高一貫の私立中学だった。  姉が健康診断で心雑音を指摘されたことがある。両親は早朝から瑠々を大学病院の検査に連れて行った。  1人残った璃々は姉の制服を着て姉の通う私立の中学へ向かった。  ちょっとした悪戯心だった。もしかしたらみんなを騙せるかもしれない。  可愛い制服を着てきれいな私立の学校を見てみたい。動機はそれだけだった。  どうせ姉には親しい友達なんていやしない。あの性格だ、黙っていれば気づかれないんじゃないか、そう思った。  ところが璃々の目論見は大きく外れる。朝のホームルームからバレてしまったのだ。  顔も体格もショートの髪型までもそっくりなはずの姉瑠々なのだが、璃々はあまりに姉のことを知らなさ過ぎた。  立ち居振る舞いから話し方、同じ制服なのにその日の瑠々は全くの別人だった。  教室へ入って来た時からクラスメイトには奇異な目で見られ、担任教師には全く歯が立たなかった。 「お前は誰だ」  ということになり、母の携帯に通報された。当然璃々はこっぴどく叱られた。姉には軽蔑の目を向けられた。 「璃々ちゃん、あなた何をやってるの。お姉ちゃんが病気かもしれないって検査を受けているという時に・・・」  母は怒るというより悲しげに言った。  一方父は、 「まあ、お姉ちゃんの行ってる学校見てみたかったんだよな。可愛い制服も着てみたかった。もういいじゃないか」 と璃々を(かば)ってくれた。 「恥ずかしいったらないわ。璃々ちゃんのせいで私明日から学校行けない」  姉瑠々はそう璃々をなじった。 「いいじゃん。どっちがどっちの学校に行くかなんて、適当に決めたんでしょ。どっちが行っててもおかしくなかったんだから」  璃々が反論した。だが、母はこれに即座に対抗した。 「そんなことありませんよ。それまでの2人の性格を見て決めた事よ。ねえ、あなた」  母は言いつつ父を見る。すぐに同意しろと言いたげな顔だ。だが父は、 「そうだったっけ・・・」 と曖昧な返事しか返せなかった。 「どうせお姉ちゃんはお淑やかで可愛いからでしょ。あたしはがさつで男の子みたいだって」 璃々が言うと父が急に口を挟んだ。 「そうだった、そうだった。俺は息子も欲しかったからなあ。璃々にはのびのび学校生活を過ごして欲しかったんだ。双子だって比べられちゃうのは可哀想だし・・・」  これでは母の理屈が台無しだった。だが父は構わず続けた。 「瑠々にはあくせくしないで、女の子らしく成長して欲しかったんだ」  そうだ。死んだ父がそんなことを昔言っていた。 「変なことを思い出したなあ。まあ今となっては笑い話で・・・ね」  璃々は姉に話し掛けると手を握った。暖かかった。姉はちゃんと生きている。  璃々がそう思った時、かすかに握った姉の指先に力がこもったような気がした。  璃々は慌てて掴んだ指を放そうとする。だが、不思議なことに手を放すことが出来なかった。 「いったいこれは・・・?」  姉の顔を見ると口角が僅かに上がった。いやそんな気がしただけなのかも知れない。  でも、姉の口元がまるでニヤリと笑ったように見えたのだ。3年間閉じられていた瞳までも今まさに開こうとしているようだった。  璃々の背筋に冷たい汗が流れた。璃々は握っていた瑠々の手を放し、ふらふらと後退った。  そのまま元いた椅子に座り込む。それから璃々は少し眠ったようだ。自分でも知らぬ間に眠ってしまった。  やがて母が帰って来た。手ぶらだった。 「ごめんね、瑠々ちゃん。まだ向日葵はないんだって。次来る時は必ず買ってくるから」  母は申し訳なさそうに瑠々の顔を覗き込む。  その後母は医者に挨拶に行き、ナースステーションへ差し入れを届けた。最後に会計を済ませると、姉の横に座る。  その間に2度ほど看護師が病室を見に来た。人工呼吸器の調子を見に来るのだ。  こうして小一時間ほど母は瑠々のそばにいた。  そして、 「じゃあ、行くよ」 椅子で参考書を読んでいた璃々に声を掛けた。  急いで身支度を調える璃々。母親に続いて病室を出る。ところが、何かを思い出したのか璃々はもう一度病室のドアを開けて中へ入った。  再び瑠々の前に来ると、 「・・・じゃあね」 そう言って病室を出た。後には乾いた人工呼吸器のシューシューという音だけが響いていた。 「遅くなっちゃうから、どこかで食事を済まそうか」  母が助手席の璃々に言った。 「うん」 璃々が静かに頷く。 「あそこでいいか・・・」 母が指差したのはハンバーガーショップだ。璃々の好物だった。 「たまにはジャンクも悪くないでしょ」  だが璃々は、 「和風ダイニング華がいい」 そう答えた。 「華?」 「確かもう少し先でしょ?」  華はあの事故のあった日、家族で帰りに寄る予定だった店だ。 「そう・・・」 母は少し怪訝そうに返事をするとハンバーガーの店を行き過ぎた。  母と2人の食事。どんよりとした空気が流れている。 「来週は地元で向日葵買って行きましょう。季節に早い花はこの辺じゃ無理だわ。璃々ちゃん、来週も行く?」  母が釜飯定食を食べながら言った。璃々はモゴモゴ言いながら返事をしない。 「どう? 璃々ちゃん。もう直ぐお姉ちゃんが目覚める・・・」 「で、でも来週は模擬試験が・・・」 「珍しいわね、試験の心配するなんて。でも、車の中でも参考書は読めるでしょ」 「酔っちゃうから・・・」 璃々は行きたくない感を全開にしている。だが母はもうこの話題には拘わらなかった。  代わりに母は瑠々が復帰した時のことを話した。 「お父さんの3回忌やってない・・・」 「別にいいんじゃ・・・そんなこと望んでないと思うよ」 璃々が答える。 「何言ってるの。3回忌って満2年なのよ。本当は去年だった。でも瑠々ちゃんのこともあるしやらなかった・・・」 「じゃあ、次でいいんじゃ・・・」 「次は7回忌になっちゃうじゃない」  母が気色ばむ。娘2人と並んで父親の法事をやる、それが母親の希望だ。 「だって・・・」 璃々がまた否定から入った。 「だって・・・、お姉ちゃんが目覚めたとして、元気に法事に出られるか分からないよ。車椅子とかじゃないとだめかも知れないし」 「璃々。あんたは何でそんな悪いことばかり言うの。滅多にお見舞いにも来ないで」  母が責め立てた。 「そ、そう言うわけじゃ・・・ないけど。お母さんの負担になってるんじゃないかなって・・・」 「負担?」 「毎日遅くまで仕事してるんでしょ? お姉ちゃんも負担になりたくないって、きっと思って・・・」 だが、母はきっぱりと言った。 「負担なんかじゃありません。瑠々が目を覚ますことが私の喜び」  璃々はちょっと涙ぐみながらこの話を止めた。海鮮釜飯に再び箸を延ばす。すると母が不思議そうな顔で指摘した。 「璃々ちゃん、ホタテ食べられるの? 嫌いじゃなかったっけ?」 「味覚が変わったのかもね。大人になったってことだよ」  璃々はそう言って母を笑わせた。
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