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第2章 加害者
女は疑問を抱くこともなく男の車の助手席にいた。運転に問題はなかった。シートに座った状態でアクセルとブレーキを踏むことに不都合はない。
ハンドルさばきも手慣れたものだ。ただ、信号が変わりそうで、行くか止まるかという時など一瞬の判断が遅れるのは麻痺した脚のせいではなく認知の問題だと思う。
家から30分ほどで目的の病院へ到着した。
実はこの30分が彼女にとって苦痛だった。なぜなら夫が唯一強大な力を手に入れるからである。
日常生活では自由の利かない下半身のため、様々な手助けが必要だった。2本の杖を突いて足を引きずりながら歩く。杖がなければ立っていることもままならないのだ。
しかし車を運転している時だけは夫が優位に立つ。自分には車の運転は出来ないから。
「よし、行こうか。カバンを忘れるな。ミネラルウォーターは買ってあるのか」
下半身が不自由な、自分1人では何も出来ない夫が言う。
「分かってますよ。病院の自販機で買うから、ご心配なく」
妻は素っ気なく返事を返した。
リハビリ病院に通い出して3年になる。通い出した頃と比べて、良くなったかと言えば、何とも言いがたい。
だいたい70代後半になっての怪我が原因なのだ。機能回復するより年齢による衰えの方が速い。
「さあ、今日も頑張ってください」
妻はそう声を張り上げる。夫は首を振りながら杖を手にリハビリ室へ消えた。
妻はこの瞬間主導権を再び取り戻すのだ。車を運転している時の態度と明らかに違うことを男も承知していた。
3年前の事故。男はどうしても自分が間違ったとは思えなかった。だが、確かに自分は逆の車線を走っていた。そして走って来た乗用車に衝突したのだ。
相手の運転手は若いだけあって一瞬ハンドルを切った。自分にはもうどうすることも出来なかったのに。
そしてその運転手を死なせ、娘を廃人にしてしまった。耐えがたい屈辱だった。
「ほら、そこ右じゃないの?」
事故の直前だ。妻が偉そうに指を指して言ったのだ。
「いや、ここじゃないよ。この先のはず」
「そうじゃない。ここ、ここを右だって」
妻にそう大声を出され男は慌てて右折する。その時入り込んだ車線が反対車線で結果車は逆走することになった。
「何やってんの! バカじゃないの! 左へ寄って!」
妻が喚くのを聞きながら男は何も出来なかった。そのまま逆車線を直進し、気が付くと目の前に別の車が迫っていた。
これは事後整理の際に弁護士から聞いた説明だ。自分では何も覚えていなかった。
「あれ? お母さんは?」
リハビリ室で歩行訓練を続ける男の元へひとりの女が近寄ってきた。
「どうも、お世話様です」
女は理学療法士に頭を下げる。40過ぎの太った女だった。
「お父さん、お母さんは?」
「ああ、事務の所じゃないか?」
「そう」
「なあ、儂はこれをいつまで続ければいいんだ?」
「いつまでって・・・」
「いくらやったって前のようにはなるまいに」
「お母さんは、だいぶ良くなってるって言ってたけど。自由に歩けたら素敵じゃないの」
「出掛けるのは車があればいい。歩くのは家の中とコンビニへ行くくらいだ。杖があれば何とかなる」
娘も内心そう思っていた。だけどこうしてリハビリ病院へ通うことで気も紛れるかもしれない、とも感じていた。
ただ、今でも父が車を運転していることには不安を覚えている。
「しっかり歩けて、そろそろ運転免許の返納も考えたら?」
娘が言ったが、男はそれを無視して歩行訓練を再開した。
そこへ母親が戻ってきた。
「ああ、来てくれたの?」
「なかなか付き添えなくてごめんなさいね」
「いいのよ。別に私は何もするわけじゃないんだから」
2人はリハビリ室の端にあるベンチに腰掛ける。
「でも、疲れるでしょ? お母さんももう年だしさ」
「全然。お父さんの世話ぐらい出来るから」
相変わらず母は弱音を吐かない。それどころか嬉々として父の世話を焼いていた。
娘は母が植物状態で眠っている被害者の娘さんのところへ毎月通っていることも知っていた。
「先方はその後どうなの?」
動かない足を呪いながら歩みを続ける父を眺めて、娘は母に聞いてみた。
「それなんだけど、さっき保険会社から電話があって・・・」
「保険会社?」
「うん。もう3年でしょ。回復の見込みはないみたいなのね。それで保険会社が保険金の支払いを打ち切りたいって」
「え? それってどういうこと?」
「保険金はあくまで回復するという前提で、それまでの治療費を払うって事になってるんだって。でも3年経って回復しないのはもう治る見込みはないって・・・」
「それで先方さんは納得するの?」
娘が深刻な表情で母の顔を見た。
「どうかな・・・? しないんじゃないかな」
母が答える。
「だよね。でも、亡くなったご主人の分、8千万だっけ? 9千万? 支払われてるんでしょ? その娘さんも・・・」
「いえ。今度はそんなには出ない。逸失利益っていうの? 今までの治療費と相殺されるから・・・300万円くらいじゃないかって」
「酷い話ね」
「あとは保険会社に任せるしかないんだけど・・・あの人もいっそ死んでてくれればね」
妻が歩行訓練を続ける男を顎で指してぼそりと言った。
「そんな・・・」
娘が絶句する。
「だって、それでも運転止めないのよ、あの人。毎月お見舞いに行くのも針のムシロなんだから」
「もういいんじゃないの?」
「そう言うわけにはいかないじゃない。私には妻として、車に乗ってた同乗者として、夫に変わって責任がある・・・」
老婆は思い詰めたように呟いた。
「今月も行ったの?」
「先週行って来た。今回はお母さんはいらっしゃらなかったから。お嬢さんの顔を見て・・・」
「何も分からないんでしょ?」
「そうなんだけど、お父さんがしでかしたことだから」
男が倒れそうになった。理学療法士が慌てて支える。妻が駆けて行って手を差し出した。
「奥さん、大丈夫ですよ。お疲れでしょうから、我々に任せて座っていてください」
療法士が和やかにチヨに話し掛けた。妻はホッと笑顔を見せると娘のところへ戻って行った。
「そう言えばね、この前行った時あの子の妹さんに会ったわ。双子だったのね。ベッドで寝ている瑠々ちゃんとそっくりでドキリとしたわ」
「へえ・・・双子の妹・・・」
「1階の待合室で会ったんだけど、何してたんだろう」
「お見舞いじゃないの?」
「でもお母様はいらっしゃらなかった」
「医者と話してたんじゃないの?」
「そうかもね。保険会社から病院へ連絡が行った頃だったはずだから」
「何だか暗そうな娘さんだった。ろくに話もできないみたいで」
「だって、お母さんのこと知らないんじゃ?」
「ああ、知らないかもね」
だが、チヨは直ぐにそれを否定した。
「いえ、知ってたわ。面高チヨさんですよねって言ったもの」
「そうなんだ・・・」
「私が頷くと両手を差し出してきたから。私たち両手で握手した」
チヨは夢見るようにその時の情景を思い出していた。
「それからどうしたの?」
娘が問いかけたが母親は言葉が出なかった。
「あれ? どうしたんだっけ?」
「何言ってるの、お母さん」
「・・・丁寧に握手して・・・、どうしたんだっけ? 覚えてないわ」
「変なの。お母さん認知機能は大丈夫なのよね?」
「当たり前よ。でも、握手してどうやって別れたんだっけ。全然覚えてない・・・」
チヨが不思議そうな顔で娘に言った。
やがてリハビリの終わった男が駐車場から車を玄関前に回して来た。
その間に支払いを済ませた面高チヨが助手席に座る。娘は後部座席に座った。
「お父さん、大丈夫なのよねえ?」
娘が声を掛けた。
「杖ついてる時よりよっぽど安全だよ」
男が答えた。妻は助手席で惚けたように座っている。
「お母さん、どうしたの?」
娘が母の肩を揺すった。
「あ、ああ。大丈夫よ。さ、帰りましょう」
妻が声を掛けると男はアクセルを踏んだ。ゴーっとエンジンの回転する音がしたが車は動いていない。
「あ!」
男は小さく声を上げるとサイドブレーキを外した。だが、妻は助手席でまた惚けたように窓の外を見ていて気が付いていない。
娘もまた子供の塾のことを考えていて気が付かなかった。こうして面高家の地獄のドライブが始まった。
男の運転する車は入り組んだ病院界隈の道を外れて幹線道路に出る。
「ふう・・・」
娘が思わず溜息をついた。狭い道では人や自転車がスレスレを過ぎて行く。ぶつかりはしないかと気が気ではなかった。
「お母さん、いつもこんな車によく乗ってられるわね。冷や汗ものだわ」
「あら。お父さんの運転はうまいものよ。事故なんて起こしたことないし」
が、直ぐに母は付け足した。
「3年前の時以外ね」
すると面高家の家長俊輔が口答えをする。
「あれは、儂のせいじゃねえ」
するとチヨがきっとなって夫を睨んだ。
「なら、誰のせいだっていうのよ!」
思いの外大きな声に俊輔が横を見る。
「前を見て運転しなよ。だから事故を起こすんだ!」
とキツい言い方のチヨだ。
「なんだと」
俊輔は思わずアクセルを踏み込んだ。車はぶあっとスピードを上げる。男は更に右車線に車を移動させた。
流れに合わせて更にスピードを上げる。
「へ、慣れたもんさ。儂はハタチん時から運転してんだ」
俊輔の運転する車は流れに乗って快調に走っていた。自宅はこの道路の終点近く。脇へ入って直ぐのところだ。
娘のスミ子はスマホで息子に電話を掛けている。
「ああ、お兄ちゃん。塾のお金、ちゃんと持った?」
「うん」
「夏季講習の申込書貰って来なさいよ」
「わかった」
スミ子の息子、つまりチヨの孫は小6だった。
その時突然チヨが怒鳴り声をあげた。
「ほら! そこ、右!」
大きな声だった。本当に母が発した声なのだろうか、スミ子には分からなかった。誰か別の人間が言ったのではないかと訝った。
「あ、いけねえ」
怒鳴られた俊輔は高速道路の入口に向けて勾配を登ってしまった。料金所は目の前だ。
俊輔はそのままゲートを通過する。取り付けてあるETCが何かを話していた。
「あ、高速なんか乗っちゃって、どうすんのよ!」
妻が喚いた。その声にスミ子も窓の外を見る。ここは高速道路だ。
「これ、東京まで行っちゃうんじゃないの?」
スミ子が言った。
「東京までは何百キロもあるよ!」
俊輔の代わりにチヨが答えた。
すると俊輔が突然ハンドルを右に切った。車はタイヤを軋ませながら大きく旋回すると
今入って来た料金所入口へ向かった。
「お父さん、何するの!」
俊輔は構わず料金所を突き抜ける。閉じたままのゲートをへし折っていた。そして坂をもの凄いスピードで下りて行った。
「お父さん、危ない!」
後席で娘のスミ子がスマホを片手に大声を上げた。チヨはハンドルを片手で握ると自分の方へ引いた。
高速へ上がってきたトラックは直ぐ目の前だった。
次の瞬間、もの凄い音と共に面高家の車が潰れた。
チヨがハンドルを切ったことで助手席は直撃を逃れた。逆に運転席は正面から押し潰され、後ろにいた娘の身体も運転席に挟まれている。
「お母さん! お母さん!」
吹き飛んだスマホから男の子の声が母を呼んでいた。
チヨはその声をはっきりと聞いた。そして意識を失った。
この事故は夕方のニュースで報道された。なくならない高齢者の逆走問題として識者がコメントを付けていた。
この事故で高速入口を逆走した面高俊輔79歳が即死。後部座席に座っていた娘の石井スミ子42歳は搬送先の病院で死亡した。
ただ助手席に座っていた面高チヨ75歳は軽症で済んでいる。なおトラック運転手に怪我はなかった。
世間の同情は面高チヨに集まった。亭主と娘に死なれ、1人残った老婆に皆同情的だったのだ。
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