第4章 幽霊

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第4章 幽霊

 3年前、瑠々(るる)の意識が戻った。事故から1週間後だった。だが、自分の置かれた状態を理解するまでにはもう1週間を要した。  暗かった。瑠々がやっと目覚めた所は光の全くない世界だったのだ。いや光ばかりじゃなく音も臭いも何もない世界だった。  事故のことは理解していた。家族でアウトレットモールへ出掛けた帰りだった。 「2人は何が食べたい?」  運転席の父が言った。 「帰って何か作るわよ」  と母が言う。すると父が、 「いいじゃないか、たまには。帰ってから料理するのは疲れちゃうよ」 と母に言ったのだ。  後部座席でそれを聞いた瑠々と璃々は顔を見合わせて微笑んだ。  璃々がスマホを取り出して何やら調べ始める。そして運転席の父に声を掛けた。 「この先800メートル左側に和食屋さんがあるよ。そこにしよう」 「和食か、璃々もシブいな。どうだい母さん」 「大丈夫なの? 璃々。ホタテが嫌いだとかシジミが嫌いだとか言ってるじゃない」  母が半分笑いながらそう言った。璃々は頼まなくちゃいいだけだと抗弁していた。  その店が和風ダイニング華だった。結局食事は食べ損ねてしまった。  次の瞬間父が大きな叫び声を上げる。瑠々が前を見るとすぐ目の前に灰色の車が迫っていた。  正面衝突だ。家族の車は跳ね飛ばされ何かに激突してクルクルと回転した。そこで記憶は途切れている。  そうだ。お母さんは? お父さんは? 璃々は? みんなは無事なのだろうか。 「お母さん! お母さん!」 「お父さん! お父さん!」  瑠々は大きな声で呼んでいた。だが漆黒で無音の世界には瑠々の叫び声など響きはしなかった。 「どこなんだろう、ここは」  瑠々は不思議な世界を彷徨(さまよ)った。が、やがてこの世界がどこにも通じていないことを悟ることになる。  自分はどこかに閉じ込められていた。それで瑠々は自分が死んだのではないかと思った。自分は事故で死んでお墓に入れられてしまったのではないかと。  どれ程の時間を過ごしたのか分からない。やがて瑠々はありふれた感覚を取り戻す。 「やだ、おしっこしたい・・・」  瑠々はしゃがみ込もうとするが、そういう態勢が取れない。そもそも足の感覚がない。いや足というものが自分にはあるのかないのか、それさえも分からなかった。  ジタバタしているとやがて尿意は消えた。そして今度は腹が減ってきた。 「お腹空いたよ、お母さん」  瑠々は呟いたが声は響かなかった。自分の頭の中だけで完結していた。すぐに空腹感は消え、瑠々は眠りに落ちた。  また目が覚める。それを繰り返すうち自分はベッドで寝てるんじゃないかと感じるようになった。 「そうか・・・わたしは寝てるんだ。身体が全く動かない状態で」  瑠々がここまで理解出来るまで更に1週間が経っていた。  そして変化が訪れた。耳が聞こえ始めたのだ。音が聞こえる。まず、シューシューという規則正しい音が聞こえてきた。  規則正しい音は自分の胸の動きと連動していた。だが、それが何なのか瑠々には分からなかった。  更に耳を澄ますと人の気配を感じた。誰かが自分の近くを歩き回っているような気がした。  近くに来たり、遠くへ行ったり、結構たくさんの人が出入りしているようだ。  そして今度は臭いがするようになった。消毒薬の臭いと甘いミルクのような臭い。鼻が治ったらしい。  五感のうちたった2つだが甦ったことで瑠々は自分の状態をかなり正しく想像することが出来るようになった。  自分は病院のベッドに寝かされているんだ。当然原因はあの自動車事故だろう。  つまり自分は瀕死の重傷でベッドで寝ている。そんな! 「でもどうして、わたしのことに誰も気が付かないんだろう」  瑠々は何度も自問した。恐らく目も開かず、口もきけず、手足も動かすことが出来ないのだろう。だから生きている事に誰も気が付いてくれないと結論付けた。  それで瑠々は何度も何度も身体を動かそうと藻掻いた。でも瑠々の身体は1ミリも動かなかった。 「誰か助けて! 誰か来て! わたしはここにいるよ!」 「お母さん! お父さん! 助けてよー!」  瑠々の叫び声は瑠々の身体の外へは決して届くことはなかった。 「瑠々ちゃん。今日の気分はどう?」  ある日瑠々は懐かしい声を聞いた。母の声だ。 「さあ、手を出して。今日もマッサージやりましょうね」  母はそう言うとごそごそと布団の中に手を入れているようだ。私の手を取ってマッサージしている?  残念ながら瑠々に擦られている感覚はなかった。まだ触覚は戻っていない。でも母は何とか自分を甦らせようと手をさすってくれている。 「お母さん、わたしは生きてる! 起きてるんだよ!」  瑠々は叫んだが声は伝わらなかった。 「ちきしょう! バカ医者が!」  瑠々は回診に来る医者に悪態をついた。自分はこうして起きているのに、医者はいつも変化ありませんと言う。  この医者は藪医者に違いない。瑠々はそう思った。医者のくせになんで分からないの。  こうして瑠々の焦燥感に苛まれる日々が続いた。  だがこの頃には聴覚と臭覚とで日にちのサイクルが瑠々にも分かってきていた。  恐らく事故から1ヶ月後、母と一緒に妹璃々(りり)が病室に来た。 「瑠々ちゃん、今日の気分はどう?」  母の問いかけに瑠々は答える。 「変わんない。早くここから出してよ、お母さん」  もちろん言葉は届かない。瑠々の唇はピクリとも動かなかった。 「うんうん。もう直ぐ、もう直ぐよ。瑠々ちゃんはもう直ぐ目覚める」  何の根拠か母は言い切った。瑠々は少しだけ勇気を貰った。 「瑠々ちゃん。今日はね璃々ちゃんもお見舞いに来てくれたのよ」  母が言った。だけど、璃々の声は聞こえてこない。でも足音だけは2人分あるのが分かった。 「ほら、璃々ちゃんもお姉ちゃんに何か言ってあげて」  母が璃々に言った。 「お母さん、だめだよ。意識がないんだから」  それは妹璃々の声だった。そして冷たい言葉だ。 「そんなことないよ。瑠々にはきっと分かってる」  母はそう言うと瑠々の腕を両手で擦りだした。 「無駄だって。もう1ヶ月以上何の反応もないんだよ。お医者さんだって植物状態だって言ってたじゃない」 「何言ってるの!」  母が璃々に怒鳴った。 「お母さん・・・、そこまでわたしのことを・・・。ありがとう、お母さん」  瑠々は誰にも聞こえない声を張り上げて母に言った。  と同時に妹璃々への憎しみが湧き上がる。そうなのだ、妹は何かにつけて敏捷(はしっ)こく立ち回っていた。  姉妹で同じ失敗をしたのに妹だけはそれを笑いに変えてしまう。  一方自分は恥ずかしい思いをするのだ。そんなことが昔からいくつもあった。 「瑠々、我慢しなさい。お姉さんでしょ」  父も母もそう言って瑠々をたしなめた。だけど、わたしと妹にどれ程の差があると言うのか。  双子の姉と妹はどれだけ年の差がある? 数時間? 数分? 差なんてないんだ。  なのに瑠々はいつも姉だ。璃々はいつだって妹なのだ。璃々はいつも弱き者、保護されるべき者なのだ。 「理不尽だ!」  瑠々は叫んでいた。しかし口を開くことも怒りに肩を震わせることも出来なかった。  瑠々と璃々に何ほどの差があるというのか。外見も体つきも頭の程度だって似たようなものなのに。  なのに・・・。 「ねえ今度はあたしが聖ルチア学園に通ってもいいかなあ。だってあの制服、可愛いんだもん」  璃々が言うのが聞こえた。既にベッド脇を離れ椅子に座っているようだ。  瑠々は益々璃々に怒りがこみ上げてきた。セント・ルチアは私の学校だ。あんたは公立の五中に行ってればいいんだ。 「セントルチアなら中高一貫だから高校受験しなくていいしさ」  妹の璃々が更に言い募った。  両親には双子をふたりでひとりみたいなまとめ方をされたくないという信念があった。それでわざわざ幼稚園も小学校も別の学校に通ったのだ。  そして中学へ上がる時、ひとりを私立の学校にもうひとりを公立の学校に通わせることにした。  それで、璃々は市立の第五中学へ、瑠々は私立の聖ルチア学園に行くことになった。親が決めたことだった。だが今となっては聖ルチアは瑠々の学校だ。  瑠々は怒りに震えた。だけど、それで血圧が上がることも心拍が増えることもなかった。モニターの数値は常に一定である。安静状態を保っていた。 「感情も身体と繋がっていないのか」  瑠々は絶望した。自分はこの身体に対する全ての権限を失っている。自分の身体なのにだ。それが医者の言う植物状態なのか。  だが、瑠々は覚醒している。今は音と匂いを感じて反応している。でもそれを伝える(すべ)がない。  瑠々の動かない身体は監獄も同然だった。理不尽に自分を閉じ込める暗い独房なのだ。  こうして日に日に瑠々の妹に対する憎悪は、増幅していった。  そうしてあの男が現れる。まるで計ったようなタイミングで。  事故から1ヶ月半後、父藤川(すぐる)が現れた。最初瑠々は父がお見舞いに来てくれたと思った。 「お父さん、わたしはどうなっちゃったの?」  瑠々は見ることの出来ない父に話し掛けた。声は出ないのだがそれでも話し掛けた。 「ああ、瑠々。私がもっと気を付けて運転していれば・・・。ごめん、本当にごめん」  父は悔恨の情を素直に示した。普段の父にはあり得ないことだった。父は厳しい人だった。正義は自分にあるという人だ。  だから瑠々は少々違和感を覚えた。 「確か、乗っていた自動車が・・・」 「ああ、あの爺さんが逆走してきたんだ。気が付くのが遅かった・・・」 「じゃあ、衝突した?」 「ああ、ハンドルを切ったがまともにぶつかった。本当に済まない。お前をこんな目に遭わせて」  しかし、そう事故の真相を語るのは間違いなく父だった。 「お母さんは? お母さんは無事だったのね?」  瑠々は父に尋ねた。 「お母さんと璃々は無事だ。軽症で済んだ」 瑠々は聞きたいことが確認できてホッとした。母と璃々はここへ来ていたが何も聞けないから。 「お母さんが無事で良かった。事故で重傷を負ったのはわたしだけだったのね」 「いや・・・」 だが、父はそれを否定した。そして続けた。 「私は死んだんだ」 「何言ってるの? お父さんはこうしてわたしのお見舞いに」 「見舞いに来てるわけじゃない。いや、見舞いと言えば見舞いだが」 「何言ってるの!?」 「あの事故で私は死んだ。幸いお母さんと璃々は助かったが、お前は重症を負って今も昏睡状態だ」 「え!? そんな・・・。昏睡状態って。私はこうして起きているのに」  瑠々は見ることの出来ない自分の身体を眺めるように言う。 「意識は戻ったのにな。お前の身体は生きているのに動かせないんだな」 「どういうことよ!」  瑠々は死んだという父に悪態をついた。  それから父はしばしば瑠々の元に現れた。あの日の買い物の成果とか、行くはずだった和風ダイニング華の料理のこととか、そんなことを話して帰った。  最初父は瑠々の今の状態に同情するばかりだった。だが、瑠々にとってその同情はとても心地よかったのだ。  自分を可哀想と言ってくれる父に感謝した。それに引き換えあの妹は・・・。あれから母はよく来るが妹璃々は一度も来ていない。 「ああ璃々じゃなくてお前が、瑠々が無事でいてくれたら・・・」  父はそんなことを漏らすようになる。 「双子のどちらかなんて・・・確率は半々だった・・・」  それはあからさまでなく匂わせみたいな・・・心地いい言葉に聞こえた。 「璃々がね、わたしの制服を着てセント・ルチアに通うなんて言うのよ。もう憎たらしいったらありゃしない」  瑠々もそんなことを口にするようになる。すると父は、 「そんなことはさせやしない。あの可愛い制服は瑠々にこそ似合うんだから」 と言ってくれた。 「そうだよね。こんなことになる確率は半々だったのに・・・。なんでわたしなのかなあ」  すると父の心から済まなそうな声が聞こえた。 「本当にごめんよ。私がもう少し注意して運転していれば・・・」  瑠々は気持ちで首を振る。 「仕方なかったのよ。まさか道を逆に走って来るなんて。お父さんにも分からなかったんだから」 「あのジジイは足を骨折したくらいでピンピンしてる。俺は悔しいよ。神仏を呪いたいくらいだ。あのジジイのせいでお前は・・・」  今まで見たことのない激しさで加害者への恨みを語る父に、瑠々は少し驚きを覚えた。  しかし、父の言葉通り、自分が置かれた状況を思うと、その怒りも理解できた。 「あのお爺さんはどんな罪になったの? 刑務所に入ったの?」  瑠々が聞いた。 「いや、何の罪にもなっていない。単に事故だと・・・」 「そんな・・・」  瑠々はだんだんと父親に感化されていった。いや、父の幽霊に心を掴まれてしまったと言っていいのかも知れない。  双子に起こった理不尽、事故加害者の理不尽、その二つの理不尽が、瑠々の中でゆっくりと憎悪へ結実していく。  ただ、その憎しみが形を成すのは、この先およそ2年半後のことである。  そして、身体が動かせないという絶望的な状況にもかかわらず、正気を保つことができたのは、父、藤川傑の存在があったからに他ならなかった。  父がしばしば現れ、たわいのない話をし、双子の理不尽を、そして加害者への理不尽を話していった。  これが瑠々の正気を保つ理由になったのだ。話し相手がいることは重要だ。例えそれが幽霊であっても。
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