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天使の羽、悪魔の羽
自分がどこにいるのか分からず、周囲を見回した。そこは、居酒屋だった。薄暗い店内、木製のテーブル、そしてジョッキの中には、ぬるくなったビール。店内にはわずかに数組の客が残っているだけだった。
最近、こういった症状がよく起こる。
「なぁ、直樹。あの時のこと、覚えてるか?」
同席していたのは、会社の同僚の和久と哲也だ。彼らは入社して以降、10年来の友人でもある。
「それって、やっぱり、あの時のことか?」
俺は、哲也に聞き返す。酔いが回り、体がだるい。昔はビール1杯でこんなにはならなかったのだが。
「そうだよ。お前が倒れた時のこと。会社で突然倒れて、マジでビビったぞ。救急車が来るまでの間、俺が心臓マッサージをしたんだ。命の恩人、感謝したまえ」
哲也は、分厚い胸板をさらに大きくした。
「ああ、あの時な……本当に感謝してる。お前がいなかったら、今ここにいないかもしれないからな」
1ヶ月前、俺は会社のオフィスで突然の胸の痛みに襲われ、意識を失った。目を覚ましたのは病院のベッドの上。倒れた以降のことはまったく覚えていない。
3日間も意識を失っていたらしい。心臓マッサージにAEDの使用、哲也には感謝しかない。
「まぁ、お前が元気でいてくれるなら、それでいいんだ。今日のお代を払えなんていわないぞ」
「仕方ないな。ちゃんとお礼をしてなかったから、今日は俺のおごりだ」
哲也の隣の和久が「俺は?」と言いたげに自分を指さした。
「お前は、担架で運んでくれたんだってな。感謝してる」
ふと、哲也の背後にある窓ガラスが気になった。視野の端に違和感を覚えたのだ。
「おい……」
俺は思わず、窓ガラスを指さした。
「なんだよ、気持ち悪いな……」
ガラスに映った哲也の背中。その背中から、白い大きな羽が生えていたのだ。まるで、神聖なものが宿っているかのように輝いていた。
「哲也……お前の背中に、天使の羽が生えてるぞ」
哲也が自分の背中や、ガラスを確認する。
「は? 何もないぞ。酔っ払ってんじゃねぇの? それとも、倒れて、脳がバグったんのか?」
哲也は笑いながら、ハイボールを手に取った。
「いや、冗談じゃなくて、本当に……ガラスに映ってるんだよ……ほら、天使の羽が」
そのとき、哲也の隣で黙って日本酒を飲んでいた和久が口を挟んだ。
「天使の羽か……面白い。実はな、俺の家、熱心なクリスチャンでさ、よく教会に連れて行かれたんだよ」
和久が、俺と哲也を交互に見ながら語り始めた。
「神父さんが、こんな話をしてくれたんだ。天使と悪魔は、この世で人間の魂を奪い合ってるって。天使が乗り移ると人間は良い行いをし、悪魔が乗り移ると悪行を犯す。だから、哲也が直樹を助けたのは、天使が乗り移ってたからってこと」
信じていない哲也は、笑いをこらえていた。
「真面目な話、お前が倒れて意識を失っているあいだ、由美さんがどれだけ心配していたか。目も当てられないほど、憔悴していたぞ。可愛い婚約者がいるんだから、定期的に精密検査を受けろよな。ああ……俺にも、綺麗な婚約者が来ないかな」
俺には婚約している女性がいた。結婚前に、随分と心配をかけてしまった。
「ところでさ、他の人にも羽が見えるのか?」
哲也がふと尋ねた。
俺は、その問いに答えるために店内を見回した。手元のビールジョッキに映る人々を、次々と確認する。
その中で、奥の席に座る男が目に入った。彼の背中にも何かが見えた。だが、それは白い天使の羽ではなかった。ボロボロの黒い羽。
「あそこ……ヤクザ風の男。あいつのは、黒い羽」
「そりゃあ、悪魔の羽だな」
和久がぽつりと答えた。
「天使がいるなら、悪魔もいる。世界は、そのバランスで成り立ってるんだよ。悪魔がついた人間は、ご愁傷様ってことだ」
俺は、深く考えるのをやめた。腕時計を見ると、もう10時だ。
「そろそろ帰る。退院して間もないし、由美が心配するからな」
「そうか。俺たちはもう少し飲んでいく。お代は後日、請求するからな。あと、気をつけて帰れよ。何かあれば電話しろ」
哲也はそう言い、再びジョッキを口に運んだ。
* * *
俺は、自宅マンションへ向かった。
今日は、由美が来ている日だ。ドアを開けると、廊下の先から料理の匂いがした。居酒屋であまり食べなかったのは正解だった。
俺は手を洗うために洗面所に向かった。
鏡を見ると、俺の背中に天使の羽が映っていた。白く輝く羽を見たとき、ほっとした――俺には、天使がついているんだ。
「おかえりなさい!」
いつの間にか、キッチンから移動してきた由美が、背後から抱きついてきた。
「シャワー浴びてくるね。ご飯、用意してあるから、先に食べてて」
由美の背中にも天使の羽。
よかった、これで悪魔の羽だったら……そんなはずはないのに。
由美が浴室に入っていく。
俺は食卓に座り、由美が用意した料理を眺めた。美味しそうなハンバーグ。フォークを握るが、待つことにした。食事は一人より、二人がいい。
そのとき、俺のスマホが呼び出し音を鳴らした。
哲也からだ。
「お前が帰ったあと、大変だったんだぞ」
「大変?」
哲也によると、あのヤクザ風の男が一緒に飲んでいた相手を刺したそうだ。体の大きい哲也が取り押さえ、警察に突き出したとのこと。
「やっぱり、黒い羽は悪魔の羽だったんだ。おまえ、犯罪者を見抜ける能力を得たのか。すげえじゃん」
詳細は会社でと、電話を切った。
仮に能力が哲也の言う通りだったとしても、役に立つのだろうか? いまさら、警察官に転職なんてしたくない。
そのとき、テーブルの上で振動を感じた。
由美のスマホが置いてあった。いつもは、風呂に持ち込むのだが、俺が突然、帰って来たので忘れたのだろう。誰かからの電話なら知らせようと思い手に取る。
ロックがかかっていない由美のスマホ。メッセージアプリが開いていた。
『直樹、家に帰ったみたいだな……で、今度いつ会える?』
――それは、哲也からのメッセージだった。
時間が止まったように感じた。いけないと思いつつ、メッセージを遡った。
そして、愕然とした。俺が倒れている間に、由美と哲也は関係を深めていたのだ。怒りが胸にこみ上げ、拳を強く握りしめた。
「許せない……」
俺が苦しんでいる間に人の婚約者に手を出した哲也も、受入れた由美も。怒りがこみあげてきた。
バスルームからシャワーの水音が止まった。由美が出てきたのだ。俺はスマホを手に取りバスルームへ向かった。
そして、メッセージを開いたまま、スマホを由美の目の前に差し出した。
「これ、どういうことだよ?」
由美は一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに薄く笑った。
謝ると思ったが、そうしなかった。
「何が悪いの?」
彼女の背中を見ると……天使の羽が、みるみる黒く変わっていった。
俺は和久の話を勘違いしていた。
一度、天使がつくと、そのままだと思っていた。天使と悪魔は、魂を奪い合っている。常に争っていいるのだ。天使がついていた人間でも、心が悪意に満たされると悪魔がつくのだ。
「裏切ったのか……言い訳はしないのか?」
「だって、あなた、助からないと思ったんだもん」
死ぬと思って、男を乗り換えたってことか。
由美の冷たい言葉に、俺の怒りは沸点を超えた。
右手にフォークを握りしめていることを思い出した。鏡を見ると、俺の白い羽が黒く染まっていった。さらに、俺の頭には牛みたいな角が生えていた。
俺はフォークを握り直し、由美の方へ歩み寄った――。
(了)
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