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前奏 とある異世界の酒場より
「――先輩、あの人って今頃どこで何してるんでしょうか?」
「あいつだぁ?」
「あの人ですよ、最強の元英雄さん」
「あー……例の叛逆者かい。そういやあんまり良い話は聞かねぇな。噂じゃあ、相当酷い処刑が執行されたとか、エグめの人体実験の被験体になってるとか……んまあ、あとはどっかの城で奴隷として扱き使われてるってぇ話もあったくれぇだ」
壁掛けランタンの橙色の光が店内を照らす古びた酒場。そのカウンター席の真ん中で、薄手の防具を身に着けた二人の男性傭兵が並んで酒を飲み交わしていた。
「はぁ。世界を救った英雄でもそんな目に遭うものなんですね」
「そりゃあそうよ。どんなにすげぇ偉業を成し遂げたっつってもよ、奴はあれだけの事をしでかしたんだからな」
そう言って、先輩傭兵は木製の樽型ジョッキを目の高さまで上げて酒を呷いだ。態度が横柄になっているのは多少酔いが回っている所為もあるのだろう。
「うーん、自分も一度だけ一緒に仕事をしたことがありますが……彼は噂に聞くような極悪人には見えませんでしたよ? 寧ろ――」
「けッ! 新入りのお前ぇには分かんねぇだろうな。んなの外面ばかり取り繕ってよお、蓋を開けりゃあ中身は極悪非道なクソ野郎だったっつーオチよ。騙されてたのさ、俺も、お前も、国民も、そして……あの方もな」
「先輩……」
酒に映る自分の顔を見つめる先輩傭兵の眼差しはどこか悲哀を帯びていて、後輩傭兵は思わず口を噤んだ。
それから数秒間の静寂の後、後輩傭兵は湿っぽい空気を変えようと、目の前でグラスを黙々と磨き上げるバーテンダーに話を振ることにした。
「あの、マスターは元英雄について何かご存知だったりします?」
「……私ですか?」
マスターと呼ばれたのは竜胆色の長髪を束ねた三十代前半くらいの男。自分に質問が飛んでくるとは微塵も思っていなかった彼は意外そうな顔をしてから、
「飽くまで他人の事なので真相は分かりませんが――」
そう前置きして自分の身の上話を始めた。彼は親友だったと言う。
「これは昔の……とは言っても七年前の出来事ですがね。私はある任務の遂行中、例の組織に属していた少年に出会いました。弱冠十二歳ながらその実力は世界屈指、所謂天才であると一様に称されていたものです」
「つまりその頃から片鱗の閃きを見せていた、と。……あ、そういえば最年少の〈神託の十三眷属〉でしたっけ?」
「ええ。まあ彼はその中でも特殊なポジションにいましたが、彼の人間性を考えれば納得できますよね」
バーテンダーは軽く笑ってみせる。
が、黙って話を聞いていた先輩傭兵はそんな二人の会話がお気に召さなかったらしい。酒を一気に飲み干すとジョッキを勢いよくテーブルに叩き付けて、
「ちッ、英雄だか何だか知らねぇが、現在じゃただの厄介者だろうが! てめえの女一人守れねぇような奴が世界を背負って戦えるわきゃあねえんだよ、違ぇか!?」
バーテンダーを睨み付けて言った。そんな興奮気味の上司を「まあまあ落ち着いて」と後輩が宥める。
「先輩、そういう僕達だってこうして仕事をサボって昼間から酒を飲んでるじゃないですか。日々の業務すら全うしていないんですから他人のことをとやかく言う資格はないですって」
「んなっ……ば、馬鹿言ってんじゃあねぇ! ここ、これはだな、その……さ、最近此処いらで暴れてるっつう輩を取っ捕まえる為の潜伏捜査だっての!」
「……」
タワーのように積まれたジョッキをチラリと経由してから、先輩に冷たい視線を送る後輩傭兵。堪らず先輩傭兵は酔って朱色に染まった顔を更に真っ赤にする。
「う、うるせぇ! んならさっさと仕事に戻りゃあいいんだろ! マスター、金はここに置いてくぜ」
男はポケットからしわくちゃの紙幣と銀貨を数枚取り出すと、それらを乱雑にカウンターテーブルに置いて立ち上がった。
「ハハッ、先輩ってば職務怠慢を認めましたね。何一つ守ることができないのは先輩自身ってオチで良いですか?」
「バーロー! 自惚れて国を裏切り自ら落ちぶれていった奴と一緒にすんじゃねぇ。てかお前も俺と同罪だろうが!」
「痛っ! ちょ、ちょっと待ってくださいよ〜」
拳骨を一発喰らわせてズカズカと出口へ歩いてゆく先輩傭兵と、旋毛を擦りながら慌ててその後を追いかける後輩傭兵。
そんな彼等に、
「またのお越しをお待ちしております」
と、マスターは丁寧にお辞儀をした。
傭兵が暴れたおかげで静まり返った店内も二人が出て行くとすぐに再び騒がしさを取り戻す。仲間と酒を呑んで呵う者、気分が高まって歌い出す者、世俗の不満を晒す者……。実に多様な情報が混沌とする空間で唯一、酒場の主だけは静かに一点を見つめていた。
「……」
マスターの視線の先、バーカウンターの上に残された硬貨には国花であるカルミアの花が描かれている。
「……自惚れて国を裏切り落ちぶれてしまった元英雄、なんですって」
小さく呟いて徐に硬貨を一枚手に取ると、少しの間それを手の中で遊ばせた。五角形の花冠が描かれたそれは橙色の光を受けて鈍い輝きを放っている。
「差し詰め……うらぶれ勇者ってところですかね――」
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