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三弾目 君の名は
「ふふんふんふんふ〜んっ♪」
白を基調とした清潔感のあるバスルームに、勢いよく流すシャワーの音と少女の鼻唄交じりの声が響く。
暫くすると水音が途切れて、ガラッと浴室のドアが開く音がした。
少女はふかふかなタオルで濡れた肢体を拭き、綺麗に折り畳まれた部屋着を身に纏ってからインナーカラーの入った髪を軽く乾かした。それから静かな足取りで寝室へ戻ると、隅に飾られた掌大の結晶に触れて明かりを点けた。
部屋は普段通り静寂に包まれている。ただ唯一違うのは、自分のベッドに先客がいる事だった。
「ど、どうしよう……思わず連れて来ちゃったけど……」
ベッドの上に横になっているのは、数十分前に出逢ったばかりの少女。多分自分と同い年くらいだろう。
あの後……そう、図書館の前で不思議な光に包まれた後の事。
自分の身に何が起きたか確かめる暇もなく、目の前で少女は酷く疲労した様子で地面に倒れ込んでしまった。それでも彼女に助けて貰ったという事は何となく解ったし、そのまま放置する訳にもいかないので、一先ず女子寮にある自分の部屋まで連れて来たのであった。
「まだ寝てる……よね?」
音を立てないように近付いて、ぐっすりと眠る少女の顔を覗き込む。
視線は自ずと唇へ。
「……しちゃったんだよね、ボク」
と、少女は自分の唇に人差し指を押し当てて呟いた。途端に顔が熱くなる。
「ななな、何を思い出しちゃってるのさ、ボクはっ! う、うぅぅ……で、でも――」
何故か少女の唇から目が離せなかった。
艶のある柔らかそうな、その唇から。
とはいえ、意識するなというのは余りにも酷。何せ、あれが自分にとって最初で最後のファーストキスだったのだから。
「どうして君はあんな事したの? ま、まさか俗に言う一目惚れっていうやつなのかな……」
少女は観察するように相手の顔を見つめた。
そして思う――
(……不思議と嫌じゃなかった、かな)
会ったばかりの女の子はとても可愛らしい顔立ちをしていた。
全体的に品があり、髪もサラサラ。それに多分同郷の人ではない。
「でも変態さん……かもしれないよね」
助けてくれた事に対して感謝している反面、彼女の一連の行動や発言に警戒心を抱く自分がいた。そんな初めて抱く感情に一人悶々としていると、いつの間にか自分の髪先が相手の鼻を擽ってしまっていたらしい。
「んっ……」
鼻をひくつかせた少女がゆっくりと目を覚ました。
起きたばかりで焦点が定まっていないのか、頻りに瞬きしている。
「あっ、ごめんなさい。起こしちゃいましたね……」
「ん? ……ああいや、別に問題ないよ」
「そ、そっか。良かったぁ……」
「うん。大丈夫だから気にしないで――」
言いかけて、口を噤んだ。
それから慌てて目を擦り、眼前二十センチメートル先にある相手の顔を確認して――
「うわああぁぁっ!?」「うきゃあぁぁっ!?」
グラデーション髪の少女は悲鳴を上げながらベッドの隅に逃げ、それに釣られてインナーカラーの少女も悲鳴を上げて後ろに飛び退いた。
「あ、貴方は……そそ、それに、ここはどこ? 私は……私?」
「こ、ここはボクの部屋だよ。それと、君は君なんじゃないかな?」
「ふぅ、それは良か……いや良くない! どうして私は知らない女の子の部屋にいるの!?」
さらにここで、ノレナは自分が下着姿になっていることに気が付いた。
「え、ちょ、まさか……襲われた!?」
「ちちち違うよ! 君の服が汚れていたから、洗濯する為に脱がしたんだけど……な、何も見てないし触ってないですから! そそ、それに、襲われたのは寧ろボクの方で――」
途端に少女の頬がかあっと赤くなって、
「や、やっぱり今の無しっ!」
両手で自分の顔を隠し、ぶんぶんと首を横に振った。すると、綺麗な黒髪が左右に大きく揺れて、見覚えのある青緑色のインナーカラーが顔を覗かせた。
「あ……貴方、もしかして図書館に忍び込んだ子……?」
「うん……」
顔に手をやったまま、少女の言葉にこくりと頷いた。
「そ、そっか。まあその、お互い聞きたい事や言いたい事があるでしょうし……とりあえず座って話しましょ?」
「……う、うん」
了承し、部屋の真ん中に置かれた折り畳み式テーブルに向かう。
「……あと、何か着るものを貸してもらえると嬉しいのだけれど」
◇◆◇
「私はノレナ・フィルハアト……ノレナで良いわ。ちなみに十八歳」
「ボクは、弾倉深月って言います。年齢は十七歳です。呼び方は何でも……」
「なら深月って呼ぶわね。敬語も禁止」
「はい……じゃなくて、う、うん。宜しくね、ノレナ」
「こちらこそ。手当てまでありがとうね」
互いに握手を交わすノレナと深月。
軽く自己紹介をした後、自ずと話題は図書館での出来事へ。
「えっと、深月は図書館で何をしてたの? 許可なく侵入するのは規則違反だって事は知ってるはずだけど……そこまでしてあの本が欲しかった?」
訊ねると、深月は黙って頷いた。
「その、ノレナはボクが晶専に通ってる事は知ってるんだよね?」
「あのローブを見れば誰だって分かるわよ」
「だ、だよね……」
深月は「別の服装で行けば良かった……」と項垂れた。
警備する立場のノレナとしては何とも言えないが、確かに身元を特定され易い迂闊な格好ではあったと思った。
「それで、晶専の生徒である深月がどうしてあんな本を欲しがったの?」
「えっと、その、ウチってほぼ実技で評価されるんですけど……じ、実はボク、あまり得意な方ではなくて……」
「つまりアレを使って楽して力を手に入れたかった、と」
「……うん」
どうやら深月は学校の成績が芳しくないようで、とかく笑い者にされることが多いとのこと。
彼女が求めた魔導書にはいくつかの種類があるが、取り分け一時的に能力を向上させるタイプの物は使い勝手が良いので、彼女と同じような理由で欲しがる人間は非常に多い。
そして本来、魔導書は一種の不足を補うための道具である為、その存在意義を考えれば彼女が本を欲した理由は至極真っ当なものだった。
――あれが本当に魔導書であれば。
「気持ちは理解らなくもないけど、アレは貴方が求めていた代物ではないの」
「……え?」
深月は驚いて顔を上げた。
「やっぱり気付いてなかったんだ……。残念だけどあれは呪術書、それも大昔の厄介な〈禁忌呪典〉の一部なの」
魔導書と呪術書とでは、その使用目的や使用方法が全く異なる。
魔導書が使用者に何らかの効果を与えるのに対して、呪術書は術者の生命力を喰らって外部に影響を与える物だ。特に初期の呪術書は制限が設けられていない為、物によっては国すら滅ぼしかねない危険な存在である。
「で、でもボクが入ったのは例の部屋だし、あそこに保管されていたのは能力強化系の魔導書だったはずで……あっ」
「何か心当たりでも?」
「え、えーっと、もしかしたら、うっかり本を落とした時に入れ替わっちゃった……かもです」
と、深月は苦笑いしてみせた。
「……あのさ、よくドジって言われない?」
「あ、いや、その……」
視線を外して狼狽える深月。
その気まずそうな様子からして、図星を指されたことは明白だった。
「別に魔導書を使うことは悪いことじゃないし、使いたい気持ち自体を否定するつもりはないわ。でもね、大切なのは過程と方法。今回は事前に防げたから問題ないけれど、次回からは正規のやり方で、そして、くれぐれもよ〜く確認してから使用しなさい。……何より、もっと自分達の力について知っておいた方が良い。知識があっても出来ない事はあるけれど、正しい知識が無かったら、いざって時に出来る事も出来なくなるから」
そう言って、ノレナは深月の頭をポンポンと叩いた。
(……ま、普通は発動にすら至らないはずなんだけれどね)
見たところ深月が発動させた呪術書はかなり昔のものであろう。
この世界の一部の人間が保有する〈魔晶力〉が尽きるまで一心に貪り喰い、それに応じて一定の範囲を文字通り無に帰す。
発動すれば甚大な被害をもたらすが、その為には相当量の魔晶力と魔晶術での詠唱が必須である。それこそ到底一学生が成せる業ではないのだ。
それを深月はただ発動するだけでなく、都市一つを消滅させるレベルの威力にまで引き上げていた。しかも現時点で彼女に目立った疲労感は無いように思える。一体どこにそれ程の体力と魔晶力があるのか。
「な、何かな……?」
ノレナにじっと瞳を見つめられて戸惑う深月。
「……気になる」
「ええっ!? そ、それってどういう……」
「……」
「ど、どうして黙るのっ!?」
深月は堪らず立ち上がりベッドに逃げた。
しかし、ノレナも無言のまま深月を追いかけるようにベッドに近付き、そのままゆっくりと二人の距離が物理的に縮まってゆく。
「え、あの、ちょ――……きゃあっ!?」
ベッドが大きく軋む。
ノレナに覆い被さられた深月の躰は、皺の寄った布団の上に押し倒されてしまった。
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