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【1】長い夜の始まり
泣いたのは俺だった
君は綺麗に微笑んで
それでも涙をこらえて
弱さを見せないのが
強いってわけじゃない
そう君が言ってくれたから
だから俺は
君のためになら
悪にだって
簡単になれるんだよ
「麗以ちゃーん、昼メシどうします?」
小早川源が手ぶらで葉月のデスクにやって来る。
「そうだなー…源は相変わらずハンバーグ?」
「麗以ちゃんこそ今日も麺類はやめてよ」
二人は顔を見合わせてふふっと笑い合う。
「取りあえず外行こう、外!
俺、窒息しそうー」
小早川はうーんと身体を伸ばすと、葉月の返事を待たずにエレベーターホールに向かった。
葉月の同期の小早川は、会社で変わっていると評判だ。
葉月と殆ど変わらないレベルの一流と呼ばれる大学を卒業し、一流と呼ばれるこの会社に、会社の期待を背負って入社したひとりだ。
ルックスだって悪くない。
175センチの身長の葉月より2~3センチ程高く、葉月程では無いがスラリと細くスタイルも良いし、十分にイケメンで、それに仔犬のような表情のかわいらしさがプラスされている。
だが、同じ新人の葉月から見ても、それ、わざとだろうという失敗をちょこちょこする。
その失敗は、会社の利益に反するとか、部の評判を落とす、上司の顔に泥を塗るといった類いではない。
小早川個人の評判を落とすだけの失敗だ。
そのうち皆、小早川には重要な仕事は頼まなくなった。
小早川は入社早々、『無能』の烙印を押されたのだ。
まるでそれこそが狙いだったと言うように、小早川は毎日アルバイトがやるような仕事を楽しそうに飄々とこなしている。
そうして入社してニ年目の冬が来た。
葉月はそんな小早川と気が合った。
小早川は頭の回転も早く、話していても飽きない。
なぜ、あんな失敗を繰り返すのか分からないくらいだ。
一緒に飲みに行けば馬鹿もやる、楽しい仲間。
ただ、小早川には『ここ』という一線があった。
どんなに仲良くしていても、これ以上は踏み込むな、と無言で伝えて来る。
そんな小早川に、呆れて離れていく人間も多い。
だが、葉月にとっては、そんな小早川が都合が良かった。
毎日、昼休みは一緒に過ごすし、週に一度は飲みに行く。
他人に言わせれば、会社の中では一番親しい友人。
しかしこのニ年近くの間、お互いの家を行き来したことも無い。
ただ、それだけの関係だった。
終業時間が来ると、小早川は「麗以ちゃん、また明日ね!」と言って早々に帰って行く。
残業は絶対しない。
葉月も「お疲れ」と笑顔で返す。
葉月にとっては残業は苦じゃ無い。
そんな塵みたいなものよりも、もっと恐ろしいことが終業後には待っているからだ
それは、2台持っているスマホのひとつにメールが届くこと。
葉月は必ず、夕方6時にメールをチェックする。
学生の頃からの習慣だ。
メールの着信を知らせるランプが光っていて、ため息が出る。
それでも素早く内容を確認する。
『自宅』
いつもの一言。
今日はまだ最悪じゃ無い…
葉月はそう思いながら、直ぐに行くと返信する。
その都心の一等地に建つタワーマンションに入るには、コンシェルジュの前を通り三つのロックをくぐり抜けなくてはならない。
葉月は頭に叩き込まれた暗証番号とカードキーと電子キーを使って、最上階に近いその家に辿り着く。
キーは持っていても、必ず玄関のインターフォンを押す。
そういう決まりだ。
返事も無く、中から扉が開く。
「こんばんは」
葉月は見慣れた顔に挨拶する。
甲斐の部下の一人、花本だ。
「こんばんは!麗以くん!」
花本は可愛らしい顔を崩して笑顔で言う。
花本のトレードマークのワンレングスのストレートショートボブの、地毛かと思うばかりにカラーリングされたの金髪が、サラサラと揺れる。
「寒かったんじゃない?
社長がお待ちかねだから、早く早く~!」
「はい」
葉月は玄関に入ると、靴を脱ぎ、用意されていた葉月専用のスリッパを履いてリビングへと向かう。
「麗以?」
甲斐は複数のパソコンの前に座って、振り返らずに言う。
「巽くん、ただいま」
甲斐がさっと立ち上がり、葉月に振り返る。
ハーフのような彫りの深い整った顔に、猛禽類の獰猛さと鋭さを放っている。
だが葉月を目にした途端、研ぎ澄まされた日本刀のような威圧感は消え、笑みが零れる。
「おかえり。会いたかったよ」
甲斐が葉月をやさしく抱き寄せる。
「俺も…」
葉月が答えると同時に唇を塞がれた。
余りに激しい口付けに、葉月の手からビジネスバッグが落ちる。
甲斐は満足げに唇を離すと言った。
「今夜は食事の後、面白いショーを見に行こう。
麗以のスーツは用意してある。
いいね?」
選択権の無い葉月は微笑んで頷く。
「寝室に用意してあるから着替えておいで。
俺もその間に準備をしておく」
葉月は直ぐに寝室へ向かう。
ベッドの上に三つ揃いのスーツ一式にネクタイは勿論、下着から靴下、ハンカチに至るまで用意されている。
葉月はコートとビジネススーツを脱ぐと、一気に裸になった。
この家では甲斐の許可が無い限り、甲斐以外が葉月の素肌を見ることは出来ない。
小さなピンク色に光るシルクの下着を摘むと自然とため息が出る。
その下着はTバックで、布の面積は無いに等しい。
それでも葉月は淡々と下着を身に付ける。
こんな物より、もっと恥ずかしい下着を履かされたこともある。
まだ少しでも隠せる布があるだけマシだ…
葉月が次々とスーツを着替えてゆき、ネクタイを締めていると、寝室の扉が開いた。
「丁度良かったな」
甲斐が笑みを浮かべ、葉月のネクタイに手を伸ばす。
甲斐は葉月のネクタイを締めるのが好きだ。
それを分かっているので、葉月は細い顎を少し上に向けてネクタイを締めてもらう。
ネクタイを締め終わった甲斐が、葉月にジャケットを着せてやる。
葉月は黙って袖を通す。
スーツを着替え終えた葉月を、甲斐はそっと抱きしめる。
「似合うよ…綺麗だ…」
「ありがとう、巽くん」
長い夜が始まるな…
葉月は胸の内で呟く。
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