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 矢島は意外にも球技が苦手だった。それはたぶん、経験が少ないからなのだろう。彼はドッヂボールも野球もサッカーも苦手だった。だから、生徒対教官の交流ゲームでは、矢島が生徒たちの標的になった。そして矢島はボールに翻弄されて、みんなに笑われていた。矢島を笑うチャンスに乏しい生徒にも大ウケだった。  その日は合同の体育としてスポーツ交流としてサッカーの練習と試合が行われていた。  将孝はサッカー部だったこともあったらしいが、足にまだ怪我が残っていたので、キーパーをやった。  今田は前線で戦ったが、矢島に足を引っ張られて生徒チームに負けた。  自由時間になり、今田がふと見ると、グラウンドの端で将孝と矢島が座り込んでいた。 「こうなったときに、先生はここにいたでしょう?」  将孝が矢島に地面に図を書いて戦略を説明している。 「そういうのより、ボールと仲良くならないと」  今田がサッカーボールを転がすと、矢島はそれを止めて立ち上がった。 「仲は悪くない。まだお互いをよく知らないだけだ」  矢島がそう言ったので、今田と将孝は笑った。  そこから少しだけ、今田と矢島でパス練習をした。将孝は矢島にアドバイスを送り、矢島は首を傾げながらも真剣にボールを蹴っていた。 「矢島先生、体力あるのに、ボール持つとポンコツですからね」  今田が言うと、矢島は顔を歪めた。 「うるさいな、必要なかったからな。スポーツクラブにテロリストチームがいたら、俺もできるようになってたよ」 「そうですね、いなさそうですね」  今田は苦笑いした。そのまま矢島にテロの話を聞いてもいいのかどうか、一瞬迷う。 「スポーツって、ルールがあるんだよな」  矢島がボールを自分の目の前で転がしながら言って、今田は首を傾げた。 「そうですね」 「ルールってのは、守られて意味があるだろ。テロリストってのは、そういうルールとかは信じてなくて、あったとしても守らない」  今田は将孝を見た。彼は真剣に矢島を見ていた。 「と、思われてるけど違う。テロに走る人たちを見ていると、ルールを守るとか守らないとかじゃなくて、ただ世界全体を信じてないんだ。何も信用できない世界に生きてる。ここに来てすぐの君もそう見えた」  矢島が将孝を見た。  将孝はまっすぐに矢島を見返していた。 「そのことに怯えているように見えました。自分に対しても怯えてましたよね。自分の手足が怖いみたいな感覚があったんじゃないでしょうか。君はおそらく猛獣です。軽く触っただけで相手を殺してしまうような気がする。違いますか?」  将孝は黙って自分の手を見た。そしてそっと顔を上げる。 「はい」  今田は2人の横顔を見つめた。矢島に至っては、俯いてボールを靴の先で揺らしているので、表情も見えない。 「だけど今田先生の支えもあって、君はもう絶望に生きてるわけじゃない。高校を選び始めたってのも聞きました。ひとまず良かったです。清倫塾の話を聞きたいそうですが、その何を知りたいんでしょうか」  矢島が言い、彼は今田と将孝を見た。  将孝が少し伺うように今田を見た。今田はうなずいた。たぶん、今なら何でも聞いていい。矢島がそう言ってるんだから。 「僕と、テロリストは似ていますか?」  将孝が聞くと、矢島は緊張していた表情を緩めた。何だ、そんなことか、という顔になる。 「首謀者の高崎と、という意味ですか? いいえ。似てません」  そのあっさりした回答に、将孝は拍子抜けしたようだった。 「実のところ、高崎は割と世界を信じていました。彼は自分が世界だと誤認してたと言ってもいいかもしれません。彼はテロリストのように若い人を扇動しましたが、彼自身はカリスマ独裁者に近いものを持ってました。だから私も彼に惹かれました。私と君は似ていると思います」 「先生と?」  将孝は驚いたようだった。それを見て矢島も小さく笑みを浮かべた。 「もちろん、私は君のように勉強はできないし、サッカーもできません。でも、無防備な人を見ると腹が立つし、痛い目に遭わせてやろうかと一瞬思います。たぶん、君もそうです」  将孝は目を瞬いた。今田もだ。 「私が幸運だったのは、ここに戻れば敵わない人がたくさんいたことです。上官は死ぬほど怖かったし、自分より下はいませんでした。だからある程度の抑制はありました。それでもかなり危険視されたことは事実です。抑制は乱暴ですがルールです。でも、それは社会というものの始まりでもあります。上手くはまらなくてもいいので、何とかそこで生きていこうと思えたら、それで充分です」 「僕は、テロリストにならないと思いますか?」 「わかりません」  矢島が言って、今田は首を振った。 「なりませんよ、市橋くんは」 「私も怖かったです。いつでもそっち側に行けた。自分でも自分がどの立場で生きているのかわからなくなることはありました。君にも何かつなぎとめるものや人がいるといいなと思っています」 「先生には、そういうのがあったんですね」 「そうですね、その時、その時で違いますが、部下だったり、家族への罪悪感だったり、何でもいいのですがりついてください。破壊衝動に負けそうになったら、ここでの日々を思い出してほしいです」  矢島はそう言ってから、今田を見た。 「私の経験から言えるのは、この程度です。きっと今田先生の授業の方が、はるかに役に立つと思います」 「そんなことないです」  今田はブンブンと頭を振った。 「あ、市橋くん、1つだけ補足していいですか」  矢島がボールを片付けようとしながら言った。 「はい」  将孝は何を言われるのかとドギマギした。 「君のご家族は、一般的なルールによって運営されていません。お父さんは支配的だし、お母さんは共依存の気配があります。ごきょうだいについてはわかりませんが、おそらく両親の価値観を君と同じように飲み込んできたとすれば、みんながずれているかもしれません。完全な家なんてないとは思いますが、それでも」  矢島はかすかに言い淀んで、それから息を吐いた。 「それでも君には大切な家族だと思います。距離を取りながら愛することは可能です。その結果、愛せなくなっても、今、愛せなくても、それは君の問題ではないと思います。君はまず、自分を信じることを頑張ってください」  将孝は少し言葉を染み込ませるように聞いた後、はっきりと「はい」と答えた。 「じゃぁ、後は今田先生と、サッカーボールの放物線を数式で書くなり、物理法則で解明するなり、好きな勉強をしてください。私は片付けて教室に戻ります」  矢島はそう言って、2人に背を向けてグラウンド整備をしている他の教官に声をかけに行った。  将孝は今田を見て、それから少し満足そうに笑みを浮かべた。 「今田先生、ありがとうございます」  いや、何もしてないけど。と思いながらも、今田はあいまいにうなずいた。  廊下で浜松と騒いでいたから、温情をかけてくれたのかもしれない。あるいは、もううんざりだと思って小出しにしたのかも。それでも生徒は嬉しかったようだ。  教室へと帰る道すがら、教練学校の寮付近にある掲示板に、小さなチラシが貼ってあるのを見た。3月下旬にテロによる死傷者への合同追悼式典があると書いてある。それは元々は清倫塾事件の被害者追悼から始まったもので、8年が過ぎた今では、一般的にテロでの被害者追悼になっているが、SDAや警察には事件に関わった現役官も多いので、暗黙的に清倫塾の追悼式典だと考えられている。  文字だけのチラシで、関連部署以外の隊員の参加は任意。  今田は行ってみようかなぁと思った。
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