Case112.

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Case112.

 まばらに通る人間達に目を向ける。さて、今日は誰に声を掛けようか。しばし眺めた後、一人の男性を選んだ。 「こんにちは」  肩を叩くと彼は身を竦ませた。そして振り返り、イヤフォンを耳から外す。 「何ですか。何か用ですか」 「はい。私は天使、貴方を天国へお連れします。これから貴方は天に召されるのです」  率直に用件を伝えると、彼は目を丸くした。見慣れた表情。私の言葉に人間はいつもこの顔をする。 「どういう冗談?」 「冗談ではございません。紛うこと無き事実です」  ご覧下さい、と羽を広げてみせる。綺麗ですね、と平坦な声で彼は応じた。 「納得いただけましたか。では天国へ参りましょう」  さあ、と手を差し伸べる。しかし彼は首を捻った。 「天国にいくって、死を意味するのかな?」 「その通り。まあ死と言うよりも正確に表すならば、肉体は活動を終え、魂が天に召されるのです」 「うん。それを死と呼ぶのだけどね」  細かい御仁だ。 「魂は永遠の安息を得ます。さあ、行きましょう」 「行きましょうっていうか、逝きましょうだね。そして断る。僕は天国にはいかない」  いつもの返事。理解が出来ない。だから私は、何故です、とこれまた素直に問い掛ける。 「好きな人がいるから」 恋人がいてもいなくても意見は同じなのか。だけど此方も首を傾げる。 「交際を希望している相手がいるという意味ですか。伴侶ではない、つまり家族ではない、極端な言い方をすれば赤の他人なわけですが、そんな方がいるという理由で折角逝ける天国を諦めるのですか」 「諦めるも何も望んでいないもの」 「誰でも到達出来る場所ではないのですよ? 私が偶々貴方を選んだから、権利を得られたのです。もう一度チャンスが訪れるとは限りません」 「チャンスなのかな。いきなり現れた天使を名乗る者に、今から死ねって急に言われるのはさ。僕には死刑宣告に聞こえたよ」 「ただ死ぬだけではありません。死んだ先には天国があります。むしろそこへ至るのが主目的であり、死はあくまで過程に過ぎません」  いやいや、と彼は手と首を振る。 「その死が嫌なんだってば」  人間は皆、そうやって拒否する。私には理解出来ない感覚だ。 「先程も申し上げたように、肉体は活動を停止します。しかし魂は天国において永遠の安息を得るのです。悩みも苦しみも無い、穏やかな世界。そこで過ごせるのは限られた者だけ。貴方は偶然選ばれたのですから、その幸運を享受する以外に取るべき選択は有り得ない」  しかし彼はまだ首を横に振る。 「救いのある死と苦しみに塗れた生なら、僕は後者を選ぶ」  ふうむ、と私は腕組みをした。 「わからないお方だ。ご自分の発言の矛盾に気付いておいでですか? 今、貴方が挙げた二択であれば絶対に前者を取るべきです」 「君達天使にとってはそうかも知れない。或いは人間の中には喜んで死に、天国へ逝く者もいるだろう。だけど僕は違う。故に僕を誘うのは諦めて、死にたがっている人に声を掛けてくれ」  そう、不思議なことに人間は誰しも自分達の仲間の中に死を望む者がいると確信している。その死にたがりの魂を、平気で差し出して来るのだ。その割に自分達は天国へ逝きたくないと揃って言う。自分が死ぬのは嫌だから、死にたがっている者を連れて行け。そんな主張をするのなら、貴方が死んでもいいじゃないですか。  そして今度は私が首を横に振る。 「駄目なのです。自ら死を望むこと、それ自体が大罪に当たります。故にそういった願望をお持ちの方々を天国へお連れするわけには参りません」 「自殺は志願するだけで罪か。じゃあ諦めた方がいい。前向きに生きている人間に、今から死んで天国へ逝こうと誘ったところで誰も乗らないよ」  わからない。理解が出来ない。 「何故そんなにも、あなた達人間は死を忌避するのですか」 「生きていたいから」  間髪入れず投げられた答え。欠片も意味がわからない。 「魂は生き続けるのに?」 「肉体にも愛着があるのかもね。そもそも僕なんかはまだ自分の成すべきことを終えていない。だから死ぬわけにもいかないんだ」 「はっきり申しましょう。貴方一人が何をしようと、誰と付き合おうと、何を得ようとも、逆に今すぐ死んだところで、世界は何も変わりません。今日も明日も、十万年後も地球は変わらず回るでしょう」 「そんなことは人間の誰しもが知っているよ」 「存在しようとするまいと、自らの価値は変わらない。その事実を皆、受け入れて生きているとでも言うのですか」 「そうだよ。それに僕には生きる理由がある。さっきも伝えたように、好きな人がいるんだ。付き合ってもいない、ただの片想いだけどね」 「赤の他人と共に過ごしたい、過ごせるかも知れないと、それだけの理由で貴方は天国を断り現世で足掻き続ける、と」 「重要な理由なんだよ。もう五年も続けた片想いさ。我ながら臆病だね」 「五年を大層な年月のように仰るなど、天国には永遠が待っているというのに」 「悪いがお断り。僕の返答は変わらない。永遠の時間がある君にこんな言葉を投げかけるのも妙だけど、時間の無駄だ、勿体無いから別の人をあたるといい。尤も、誰を誘っても同じ答えしか返って来ないと思うけど。今までだってそうだったでしょ」  仰る通り、と肩を竦める。 「百十一人に声を掛けましたが私の誘いに乗る者はおりませんでした」 「案外少ない人数だね」 「私は若輩者なので」  そっか、と彼は頬を掻いた。 「それも君の修行か何かなのかもね。まあ、無駄だとは思うけど頑張って」 「応援するくらいなら天国へ一緒に逝きましょう」 「生憎様、お断りだよ」  わかりました、と一礼をし、手を振り別れる。随分前向きな人間だ。人間全体に対して明るい見通しを持っていた。そして、私の修行かも、などと妙な発言をしていた。何だかそれこそ妙に疲れた。少し休むとしよう。
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