Case543.

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Case543.

 さて、今日は誰に声を掛けようか。思案しながら歩いていると、一人の若い女性が此方を見詰めているのに気が付いた。白いティーシャツに黒のスキニーパンツを身に付けている。黒い髪は肩口で切りそろえられていた。そして随分細身だ。肌はやたらと白く、頬の辺りなどは血管が透けている。長い睫毛と大きな目。それが私を見詰めていた。私は自分がその気にならなければ人間の目に捉えられることは無い。だが彼女は明らかに私を見詰めていた。そして彼女の傍らには中肉中背、灰色のパーカーと濃紺のジーンズを着ている若い男性が立っている。彼は私に気付いていない。しかし、どうしたんですか先輩、と男性が女性に声を掛けた。女性は黙ったまま。ただ私に視線を寄越す。ふむ、今日は彼女を相手にしよう。そう決め、足音高く二人に近寄る。彼女は私を見上げた。彼は首を傾げるばかり。初めまして、と私はゆっくりと一礼をした。 「あんた、人間じゃないな」  彼女の第一声はそれだった。え、と男性が目を丸くする。御名答でございます、と私は胸に手を当てた。 「正解の褒美は、彼にも姿を見せること、だ」 「そのために機先を制したわけですか? 随分慣れていらっしゃるようで」 「生まれつき、アホみたいに霊感が強いんでね。色々心構えは身に付けているのさ」  成程、と男性にも見えるよう手配する。突然目の前に姿を現した私を認識した男性は、うわっ、と声を上げた。 「な、何だ? どこから湧いて出た?」 「ずっとそこにいたさ。君には見えていなかっただけ」  二人に向かい、唇を三日月形に歪めてみせる。彼は首を竦めた。彼女は眉を寄せたまま。 「改めて自己紹介を。私は天使。本日は天国へのご案内に参りました」  はぁ? と男性がまた声を上げた。嫌だ、と女性がきっぱり断る。何故です、と私は表情を変えない。 「天国ですよ。苦しみなんて一つも無い、人間にとっての理想郷。そこで魂は、未来永劫穏やかに暮らすのです」 「嫌だと言った。これ以上、話すことは無い」  そう仰らずに、と私は小首を傾げてみせる。しかし女性はあっさりと背を向けた。行くぞ田中君、と足早に立ち去ろうとする。 「そう仰らずに。誰もがいけるところではないのですよ」  正面に回り込み、話を続ける。いかない、と女性は即答した。 「結論は変わらない。お前がいくら説得しても私は彼と共に現世で生きる」 「ではお二人ともご案内しましょうか。共に旅立つのなら不満は無いかと」  一緒に過ごしたいなら纏めて案内すればいい。だがその提案にも、あるに決まっているだろ、と女性は突っぱねた。 「天国にいくっていうのは、つまり死ぬって意味だよな」 「無論です」 「じゃあごめんだ。これから一緒に生きていこうって時に、二人纏めて死にましょう、なんて提案に乗る奴がいるか。そもそもお前の言葉や仕草には欠片も心を動かされない」  彼女の言に首を捻ってみせる。 「差し支えなければ、その理由をお伺いしても?」 「お前に心が無いからさ」  その指摘は若干的を外れている。だから顎を引き、違います、と否定をする。 「私にも心はありますとも」 「じゃあ足りないんだな。お前は人間を理解出来ていない。この仕草をすればこう見える、こんな言葉を投げかければ相手はこう捉える、という計算の上で動いている。だがその実、気持ちが、感情が籠っていない。だがお前にも心はあると言う。その言葉を信じるのならば、我々人間を理解していないが故だと推察される。お前はわからないんだ。人間が何なのか。私達が虫や魚の行動とその意味は解明出来てもその時どのような感情を抱いているのかまではわからないのと同じように、天使であるお前も人間である我々の感情や思考を理解出来ていない。違うか」  真っ直ぐな視線を一度も外さず、彼女は言い切った。先輩、と男性が彼女の肩を抱く。 「その辺にしておきましょう。天使だか不審者だか知りませんが、あんまり逆撫でするのもよろしくありません」 「違うね。はっきり言葉にして伝える必要がある。気持ちは口にしなければ相手に聞こえない。そして話していないものをわかれ、察しろと言うのは怠慢と横暴だ。人間も天使も、通すべき筋は通さなきゃ」  その言葉を聞いた私の胸中に、一つの感情が沸き上がった。 「……面白い」  思わず呟く。あ? と彼女は鋭い視線を私へ向け続ける。見えないはずの私を捉えたその瞳。そこには、いつもどんな光景が映っているのか。 「貴女は本当に人間ですか? 我々天使に近い気がします」  率直な感想を伝える。ふん、と彼女は鼻を鳴らし腕を組んだ 「紛うこと無き人間だ。どうにも霊感は強いがな」 「成程。前世が人より我々寄りだったのかも知れません」 「知らねぇよ、前に生きていた頃のことまで」  ふむ、と私は顎に人差し指を当てる。 「こんな会話を人間と交わしたのは初めてです。もっと貴女と話がしたい。今からお時間をいただけませんか」  しかし彼女は人差し指を立て、その提案が既にアウト、とすぐに私を指差した。 「旦那の目の前で人妻をナンパたぁ不埒な奴だ。そういう小さな、だけど大事なところから一つずつ学んでは如何かね。お前はまず、人間を天国へ誘う以前に、人間と接して理解を深めるところから始めるべきだ」 「勿論、お二人共にお連れしますが」 「そいつは天国? それともお喋り?」 「どちらにも」 「アホぅ。結局死ぬって結論がズレないのなら、私らを誘ったってしょうがあるめぇ」  成程。 「承知しました。ではまずはお話だけでも。貴女方にお相手をしていただきたい」 「悪いがパス。何故なら私は愛しの旦那とお散歩デート中だから。他を当たっておくれやす」  まったく、どこまでも躱し続けるお方だ。そうですか、と一礼をする。 「大事なデートの最中にお邪魔をしました。人でありながら天使に近い貴女から頂いたアドバイスを胸に今後の勧誘を行います」 「だからそれ以前に理解を深めろよ。んじゃな、天使。価値観が変わったらまた会いにおいで」  そうして彼女は彼と腕を組み去って行った。先輩は俺だけの天使でいて下さい、そんなの当たり前じゃないか、などという会話が聞こえる。仲が良いから故のものだとわかったが、好意、愛情、下心、などの内、どのような感情が波立っているのかはわからない。
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