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プロローグ
「ヴィヴ王子!! ヴィヴ王子どこにいらっしゃいますか!?」
天空に浮かぶ島──アストラリアの王宮に響き渡る老齢の男の声。
綺麗に掃除され、埃一つない廊下を大股で歩きながら叫び散らしている。
いつものことなのだろう。周りの者たちはとくに気にした様子はなく、各々仕事に取り組んでいた。
「またヴィヴを探しているの?」
呆れたような声音。しかしそこに棘はない。むしろ親しみがこもっていた。
声の主は探し人であるヴィヴの姉、シンクレアだった。
彼女は書類を手にしながら、執事とおぼしき男へと歩み寄る。
「ヴィヴなら寝室にいると思うわよ」
「ありがとうございます! シンクレア様!」
「いいのよ」
男は何度も頭を下げ、足早に立ち去っていった。
その背中を見送っていると、くすりと小さな笑い声が漏れる。
「まったく、相変わらずね」
執事の走り去って行く背中を見送りながら呟いた。
彼の寝室は、豪華絢爛ながらもどこか静寂が漂う神秘的な空間だった。
天井は高く、星空のように煌めく細やかな装飾が施され、薄暗い夜にも光が柔らかく降り注ぐ。
壁には精緻な刺繍がされた深紅のタペストリーがかかり、その上には王家の紋章が威厳をもって鎮座している。
部屋の中央には、重厚で大きな天蓋付きのベッドが置かれ、薄い絹のカーテンが風に揺れるたびにひそやかに揺らめき、寝室全体に穏やかな陰影を与えていた。
寝具は細やかな刺繍が施された絹布で整えられ、その一つ一つが熟練の職人によって織り上げられたもので、触れればひんやりとした感触が肌を包み込む。周囲には香炉がいくつか置かれ、かすかに漂う花の香りが、室内に神聖さと落ち着きを与えている。
静寂に包まれたこの空間では、まるで時間が止まっているかのように思える。
王宮の外で何が起きていようとも、この寝室だけはただ永遠に穏やかな眠りと夢を守り続ける場所であるかのようだった。
「何やら、あなたを呼ぶ声がするのだけど……大丈夫なんですか?」
「あ? へーきへーき。どうせバルムが騒いでるだけだろ」
寝台の上に転がったまま答える。
そこには一人の少年がいた。
年の頃は十代半ばほど。癖のある水色の髪を伸ばし、今は寝間着姿だ。眠そうに瞼を擦り、大きく欠伸をしている。
一見するとやんちゃそうな風貌だが、目鼻立ちは整っており、顔立ちそのものは端正であると言える。
ただその身なりは非常に雑だった。上半身は裸で、下半身には丈の短いパンツのみ。しかもそのパンツは腰帯を巻き付けただけの簡素なものだった。
「そんな格好をして……仮にもあなたは王族なのですから、もう少し気を遣ってください」
「自分の寝室でくらいいいだろ? それに……お前だって人のこと言えねーじゃん」
「だ、誰のせいですか! もう!」
彼女は頬を真っ赤にして睨みつけてくる。だがこちらとしてはその姿の方が微笑ましいもので、自然と笑みがこぼれてしまう。
「オレのせいだよなぁ? アルマは昨夜すっげー乱れてたもんな〜?」
「なっ……も、もう!」
ヴィヴは背中に生えている羽をパタパタさせて、イタズラっ子のような笑みをたたえている。
このアストラリア島は、竜人族が暮らす空島だ。
空高く浮かぶその島、アストラリア島はまるで夢の中に存在するかのように静かで神秘的な場所である。
日差しに照らされた雲海の上に、まばゆいほどの緑と鮮やかな花々が広がり、風に揺れる草原の中を不思議な生き物たちがのんびりと歩き回っている。
島の中心には大きなクリスタルの塔がそびえ立ち、どこまでも澄んだ青空に向かってまっすぐ伸びている。
その塔は島の心臓とも言える存在で、昼は虹色の光を放ち、夜には淡い青い輝きに包まれる。塔の内部は幾重にも渡る階段や広間が迷路のように続いている。
アストラリア島は一見、穏やかな楽園のように見えるが、長く語り継がれてきた伝承では「時が止まる地」とも呼ばれる。
島に住む者たちは、下界の時の流れとは異なるゆったりとした時間の中で生きている。
旅人が訪れた際、ふと見上げた空にはいつも同じ形の雲が漂い、島の影はほとんど変わることがない。
しかし、訪れる者は誰しもが島にいる間にどこか心の奥底に眠っていた記憶や感情に触れるような体験をするという。
「ここでの生活は、もう慣れたか?」
「ええ。もう一年になりますから、それなりには……といっても、まだ周りの人達の目が怖いんですけどね……」
アルマは、アストラリアでも珍しい人間だった。
それもそのはず。彼女はヴィヴが見初めて、下界から連れて来た女性なのだ。
元々アストラリアに人間の旅人がやってきたのは大昔──それこそ、他の国が他国と交流を始めた頃の話だったという。
アストラリアでは異種族間の恋愛も珍しくないが、それでも人間という種族はあまりにも珍しい存在だった。
そのためかアルマは周囲から好奇の眼差しで見られることが多く、ヴィヴもそれを心配して彼女のことをよく気にかけている。
「ま、そりゃしゃーねぇだろ。こんな所に来れる奴は、竜人族か鳥人族みたいな有翼人くらいだからな」
「聞いたことがあります。空を飛べる翼のある種族は、このアストラリアへ自由に出入りする権利を持っているんですよね? ……私も翼があればもう少し胸を張って歩けたのかもしれませんね」
淋しげに視線を落とすアルマの手に指を這わせる。途端、頬を赤く染めてビクリと反応を示す姿が可愛らしい。
「……慰めてくれるんですか?」
「じゃあもっとやらしく触っていい?」
「やっぱり励ます気なんて無いですよね!?」
ぽかぽかと胸を叩いてくるが、その力は決して強くない。むしろ子猫がじゃれついてきているみたいだ。
そんな彼女の姿を見ると悪戯心が沸々と沸き上がり、自然と口角が上がってくる。
「お前はそのままでいいんだよ。オレの嫁になるんだからな」
「ふふ、嬉しいです。ヴィヴ様」
上目遣いにこちらを見つめる眼差しは慈愛に満ちていて、その優しさが嬉しくてたまらない気持ちになる。
今まで竜人族の王子として生きてきたが、この女性の前ではただの男として接することができるのだ。
アストラリアの王族であるヴィヴには、すでに多くの妃候補がいた。
だが彼はどの女性にも心を動かすことはなかった。
「ヴィヴ様は……本当にお優しい方です」
「ん?」
「私のような人間を妻に迎え、このアストラリアでの生活まで保証してくださって……」
「ばーか。オレがお前と一緒にいたかっただけだ」
「……っ! あ、あぅ……そ、そんな……」
アルマは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。その様子があまりにも可愛らしくて、思わず抱きしめてしまう。
「ひゃっ! あ……あの……まだ朝ですよ?」
「関係ないね。オレはアルマの全部が欲しいんだ。……いいか?」
「……はい」
そのまま唇を重ねる。最初は軽く触れ合うようなキスだったが、次第に深いものに変わっていく。舌を絡ませ合い、互いの唾液を交換し合うように何度も角度を変えて深く貪り合う。
「んっ……ふぅ……」
アルマの口から漏れる吐息が艶めかしい。彼女の身体からは甘い香りが立ち上ぼり、鼻腔を刺激する。その香りに誘われるように首筋へと顔を埋めていくと、くすぐったそうに身を捩らせる姿がとても愛おしい。
そのまま強く抱きしめると、彼女もまた背中に手を回して応えてくれる。
「アルマ……」
耳元で囁くように名前を呼ぶと、それだけで彼女は小さく身体を震わせた。その反応が可愛くて、つい意地悪をしたくなってしまう。
耳たぶを食むように口に含むと、「ひゃん!」という可愛らしい声が上がる。
舌先でなぞるように舐めると、アルマはビクビクと身体を痙攣させた。
「……可愛いな」
「も、もう! ヴィヴ様ったら……あぅ」
今度は首筋をツーっと舌先で舐める。するとアルマはくすぐったそうに身をよじらせるものの、決して逃げることはしない。むしろもっとして欲しいと懇願するような視線を向けて来るものだから、つい歯止めが効かなくなってしまうのだ。
「あぅ……はぅぅ……あの……昨夜も激しく求め合ったので、少し自重してくださいますよね……?」
「……悪ぃ」
さすがにやりすぎたかと思い謝罪するのだが、それでも彼女は優しく微笑んでくれる。その笑顔を見ると胸の奥底が温かくなるのを感じた。この笑顔を守りたいと思うし、ずっと側にいて欲しいと思うのだ。
「でも……ヴィヴ様に求められるのは嫌ではありませんよ?」
「……お前、本当に可愛いな。他の男に取られないか心配だぜ」
アルマは頬を赤らめながら、「大丈夫ですよ」と言って微笑んだ。その笑顔を見ていると、胸の奥底から込み上げて来るものがある。
それは愛おしさだったり、独占欲だったり、あるいは支配欲だったりしたかもしれない。
とにかく彼女に対する愛情がどんどんと膨れ上がり、今にも爆発してしまいそうな勢いだ。
「愛してるぜ」
「はい、私もです」
彼女に対する独占欲や愛情は、アストラリアに来てさらに強まっているように感じる。
だがそれは決して不快なものではない。むしろ心地よいものだ。この気持ちを抑える必要はないのだと、そう思えるのだ。
アルマの笑顔を見ていると、そんな不安も吹き飛んでしまうほど心が満たされていくのを感じたのだった。
いつまでも、この幸せが続くと思っていた。
しかし、その幸せが壊れるのは突然のことだった。
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