2,白紙

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2,白紙

 入学式以来に見た気がするスーツ姿の母に連れられ戻った学校では、ひりひりとした空気に包まれ生活指導室に案内された。初めて入るその教室には教頭、学年主任、担任がずらりと並び冷ややかな空気が流れる。担任だけがそわそわと落ち着きがない。それはそうだろう。受け持つ生徒が窓を割り脱走したのだ。特に治安が悪いわけでもない公立高校では滅多に起きないであろう不祥事だ。 「ひとまず、青井くん。傷は大丈夫ですか?」  生活指導も担っている学年主任の体育教師が言い、青井傑は「はい」と小さく答えた。私の部屋にいたときは怯えたような様子を見せていたのに、ここでは妙に落ち着きはらっている。好きにしてくれと、無抵抗を示す脱力感があった。 「窓は弁償します。申し訳ありませんでした」 「そういう問題ではないのですよ。なぜ、こんなことを? 自分がしたことをわかっていますか?」  問われて、青井傑は黙った。  しばしの沈黙のあと、学年主任の視線が私に向かう。 「山田さんは知っているのですか?」 「彼女は知りません」  答えたのは黙っていたはずの彼だった。 「山田さんは単純に僕の怪我を心配して追いかけてきてくれただけです。関係ありません。この治療をしてくれたのも彼女です」 「本当ですか? 山田さん」 「えっと……」  関係ない、と言われるとそうである。実際私はなぜ彼が窓を割るに至ったのかを知らない。けれど学校を飛び出したのは、私自身もそうしたいという衝動によるものだ。それをどう説明するべきなのか迷う。特に隣にいる母を不安にさせたくなかった。 「お母さんは何かご存知ですか?」 「すみません。私も驚いているところで……正直なところ、娘の学校でのことはほとんど知らないのです。ただ、理由もなくこのようなことをする子ではありません。その理由に気付けずにいることに恥ずかしさを感じています。……ですが娘が彼を味方するなら、私もそうしようと思います」  そう言われて、私と青井傑は同時に母を見た。母は困ったように笑って、教師たちに深々と頭を下げる。「チッ」と、誰がしたかわからない舌打ちが聞こえてカッとなる。大人たちの冷ややかな視線が母に注がれ、それが意味するところを察してしまう自分が嫌になった。きっと、母の職業を侮蔑している。お母さんは関係ない! と言おうとした瞬間それを遮るように母が言った。 「子供たちのしたことの責任は親にもありますので。青井くんのことも、どうぞ親御さんと一緒に話してあげてくださいませんか?」 「高校生ですよ、責任の取り方も学ぶ時期なのです」  教頭が言った。 「青井くんのお父様は今海外だそうです。帰国後すぐに話し合いの場を設けます。確かに、大人にも責任のあることなのでしょう。さやかさんについてはお母様にお任せします。青井くんは少し残って、もう少し詳しい話をしていただきます」 「山田さん、教室に荷物を取りに行きなさい。今日はお母さんと一緒に帰って、しっかり話し合いをするように」 「……はい」  追い出される。それがわかったのに何もできない。母とふたり、指導室を出た。彼の少し俯いた背中が少し切なかった。  教室に行くと午後の授業中だったが一瞬しんと静まり返り、異物を見るかのような視線を浴びる。青井傑に割られたガラスは段ボールで応急処置がしてあり、そこだけぽっかりと別の空間のようになっている。私は同級生たちの視線を無視して荷物をとり教室をあとにする。  黒板に向かう彼らが違う生き物のように感じた。群れから飛び出したんだ。そう思った。寂しさより、どこかほっとしている自分がいて、それがまた悲しかった。  母とふたり並んで帰る。  母は「今日仕事行きたくなぁい」なんて言いながら緊張感のない話をだらだらと続け、深く追求してくることはない。もしかしたら、本当は私の感情に気付いているのかもしれないし、それを聞くのが怖いのかもしれない。だからこそ、ここで謝るのは今の関係を壊すきっかけになってしまいそうで言葉を探す。私は確かに自分の境遇に絶望を感じた。でも、母を恨んではいない。自分のせいだとは思ってほしくない。  だから。 「お母さん。ありがとう」  味方をしてくれると言ってくれたこと。そのことに対して感謝を伝えた。  母は少し驚き、ほんの少し唇を噛んで、笑った。  青井傑の処遇は停学二日。その間に窓は新品に入れ替えられ、彼が復学するときには何事もなかったかのようになっていた。  もともとクラスメイトとの付き合いもなかった彼は周りの目を気にする様子もなく、静かに登校してきて注目を集めたのは一瞬。誰も彼に触れず、彼もまた普段通り、机で本を広げた。気弱そうに見えて案外タフなのかもしれない。  孤独を避けたがる人間が多い中、彼は進んで孤独になろうとしているように見える。  私はと言えば当たり障りのない日常に戻しつつ、クラスメイトの好奇心には曖昧に応じてあの日のことの詳細は明かしていない。「青井くんと付き合ってるの?」という質問だけは否定しておいたがそれでも彼が登校してきたときチラチラと私の様子を窺う視線も感じた。そんなドラマチックな見方もできることは理解している。期待には応えられないけれど。  その日の昼休み。担任に呼び止められた。 「山田さん。進路希望調査表、まだ提出していないでしょう? 記入して持ってきてくれる? 悩んでいるなら相談にのるからね」  そんな定型文のように「相談にのる」と言われても、じゃあ今後の私の可能性について詳しく教えてくれますかと聞きたかった。だけどここは公立の進学校で、就職の斡旋なんてしていない。そもそも今の担任からは何の熱意も感じていないので端から期待していないのだ。教室を飛び出した私と彼を、さぞかし煙たく思っているだろう。  そんな訳で、放課後教室に残り白紙の進路希望調査票と向き合った。  机の上にあるのはただの紙切れ一枚なのに、強敵に思える。  校内では部活動に励む生徒たちの声や下校しているグループの笑い声が響いてここが学校なのだということを思い知る。私はあと一年、ここに居なければならない。  こんな宙ぶらりんな気持ちのまま、受験一直線のカリキュラムに挑み、教師の叱咤激励を受ける。ここにいる意味があるのだろうか。  この紙に、一体何の価値があるのだろう。 「部活とかいかないの?」  突然声をかけられてびくりと跳ねる。  青井傑だった。あの日以来初めて口をきく。クラスメイトの前で話すのはなんとなく憚られたし、彼からは人を寄せ付けないオーラを感じていたから傷の具合すら聞けていなかった。 「私帰宅部なの。母が忙しいから、学校終わったら家事。ほんとはアルバイトもしたいんだけど母に止められてる。高校卒業するまでは勉強しろだってさ」 「ふうん。アルバイト、いいと思うけどなぁ」 「でしょう? 私も母にばっかり頼ってられないし。だから働かなくちゃいけないのは、わかってるんだけど」  未記入の用紙を見る。  第三希望まで何を書けばいい。 「無理に書くことないんじゃない?」  彼は言った。 「……そういう青井くんはどうしたのよ」  聞くと、彼はポケットをごそごそとまさぐり、白く丸まった紙を取り出す。 「ゴミ、かな」 「うわ……」  私の強敵は、彼にとってはゴミらしい。なんだか可笑しくなってくすくす笑ってしまう。 「青井くんてやること大胆だよね」 「そうかな……」 「なんかもっと、目立つのが嫌でびくびくしてるいじめられっ子だと思ってた」 「……あんまり否定はできないけど、失うものもないしね」  さっぱりとした開き直った言い方だった。  どうしてそんなことが言い切れるの? と問おうとしたとき、白紙の上にポン、と手のひらサイズの包みが置かれた。よく見るデパートの包装紙で、贈り物用のリボンがついている。 「え。どうしたのこれ」 「ハンカチ、汚しちゃったから。お詫びに」  見上げた彼の表情は少し照れ臭そうだった。これは所謂お詫びという名のプレゼントだ。私はどきりとして「開けていい?」と尋ねる。「うん」と言われて本人の前で包みを丁寧に剥がした。  ブランドもののハンカチタオルだった。  それも、富豪が持つほど高級なハイブランドではなく、女子高生がちょっと憧れる普段使いが出来るほどよいラインのブランド。淡いブラウンにチェック柄が愛らしく、品もある。 「こ、これ青井くんが選んだの?」 「いや……。えっと、お手伝いさんに相談して用意してもらったんだけど……どうかな」 「どうもなにももったいないくらいだよ。ほんとに貰っていいの?」 「うん。何にもお礼出来てなかったから」 「気にしなくていいのに。でもありがとう。大丈夫だった? 色々……」  絆創膏を貼ってある左手。そして休んでいた二日間。 「すごく怒られたんじゃない?」 「別に。呆れられはしたけど、それだっていまさら……」  言いながら眼鏡の奥の瞳がかすかに揺れた。楽しいはずはない。それだけはわかる。彼を見ていると何かしたくなる。でも何が正解かはわからない。 「……絶望同盟」 「え?」  彼が急に呟く。 「これってまだ有効?」  そういえばそんなことを言った。愚痴り合うくらいいいじゃない、と軽い気持ちの提案で。  彼は真っすぐ私を見ている。探るような、試すような……。 「もちろんだよ。何か話したいことでもあるの?」 「とりあえず今度の週末、遊びに行かない? 親睦会」  ふ、と嬉しそうに笑う彼はどこか幼い。  遊ぼう。実にシンプルなお誘いだ。でも気晴らしになるのかもしれない。 「うん。いいよ」 「よかった。じゃあ、連絡先」  彼はスマートフォンを取り出す。私も慌てて取り出した。  メッセージアプリで友人の名前が並ぶ中に「青井傑」の名前が追加される。ピコン、とスタンプがついた。『よろしく』ゲームか何かで見たようなキャラクターだった。 「よろしく」  口頭で返事すると彼は「ははっ」と嬉しそうに笑う。  彼が笑ってくれるとなんだか私も嬉しくなる。笑えるんだ。そのことに安心するのかもしれない。それくらい、彼は儚い。なぜかはわからないけれど。 「これは、今じゃなくていいよ」  そういって彼は進路希望調査表を裏返した。  受け取ったハンカチを握りしめ、私は「うん」と頷く。少し泣きそうだった。
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