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4,絶望の正体
そのあとのことはほとんど覚えていない。何から考えていいのかわからなくて、ただ、彼は平然としていて、車を呼び家まで送ってくれた。居合わせた母に挨拶もしていたようだったが何を話していたのか。彼が去ったあとも母は「デートはどうだったのっ?」と瞳を輝かせて聞いてきたがライブに行った、としか話さなかった。
ーーー僕の絶望は、君を好きになったこと
これは、どう受け止めればいいのだろう。
好きになった。これは告白? 恋愛、なのだろうか。それとも友愛?
好きだから絶望する。なぜ?
一緒にいて楽しいと言うくせに、絶望している。その矛盾は何なのだろう。
私にとって絶望は、見えない明日だ。
暗くて重くて逃げ出したくなるような恐怖だ。叶わない夢への切望と、どうにもならない無力さ。自分がただの子供だという事実。苛立ちに似ている。
でも、彼にとっては違うのだろうか。
どうしてあんなにも穏やかに絶望を語るのか。
窓ガラスを割ったあの瞬間のエネルギー。それは確かに、私と似たものを感じたはずなのに。
考えても考えてもわからない。
私はその夜、知恵熱を出した。
月曜の朝には体調も戻り学校へはいつも通り登校した。
正直にいえば彼とどんな顔で会えばいいのかわからず気が重い。あれが告白だったのだとしたら私は何か返事をするべきなのだろうか。恋愛なんて考えてもいなかったのに。
教室に着いて自分の席で荷物を片付ける。時間割を見て忘れ物がないことを確認してふと窓を見る。新品の窓ガラスもすっかりなじんで、その向こうに青空を透かしていた。
いつも通りでいい。それが無難だ。私も何も聞かなかったことにして、普通にしていよう。そう思ったときだった。
ざわ、とクラスに驚きの声と空気が流れた。
「え、青井?」
誰かのその一言に導かれて教室の入口を見ると青井傑が立っている。
長かった髪は短くなり、眼鏡もしていない。隠されていた芸能人顔負けの整った容姿が露わになっていた。同一人物なのか疑いたくなるのもわかる。中性的で柔らかく、それでいてどこか冷えた瞳。にこりともしていないのは相変わらずだが、それが余計に存在感を引き立たせている。
「ねぇ、ちょっと、ユウに似てない?」
女子のそんな囁きが聞こえた。ユウ。一緒にライブに行ったバンドのボーカル。彼の従兄弟。血の繋がりがあるなんてことを知っている人間はいないだろう。似ていて当然なのだ。というよりも、青井傑は、彼に寄せて変身したように見えた。
ーーーああいう感じが好みかぁ
そんな呟きが脳裏に蘇り、ひどく自意識過剰なことを考えた。まさか。そんなまさか。
しかし彼はクラス中の視線を浴びつつも平然と中へ入ってきて、つかつかと私に近付き、隣で立ち止まった。
「おはよう、山田さん」
挨拶なんてしたことないのに。わざわざ私に向かって言ってくる。
「お、おっ、はよ……」
動揺が声に出てしまう。
「ははっ。びっくりしてる」
「そりゃするよ。だってイメージが全然……」
「そうかもね。なんか視界が広くなった。だからかな。視線がうるさいな」
彼がつんとして周りを見渡す。まるで視線を跳ね返し、何見てんだ、と威圧しているようで慌てて「似合っているよ! すごいかっこいい!」と声をかける。
「ほんと? よかった。あ、そうだ。お昼一緒に食べない? 昼休みにまた来るね」
そう言って彼は窓際の席へと去っていく。それを呆然と見送った。
「ねね、山田さん。やっぱり青井くんと付き合ってるの?」
こそこそっと隣の席の女子が聞いてきたので
「ないない、付き合ってない」
小声で首を振る。
そうではない。
でも、そんな甘い空気を感じてしまったのは、気のせいではないのかもしれない。
昼休みになると彼はお手伝いさんお手製だという弁当を携えてやってきた。空いた席をくっつけて当たり前のように向かいに座り、「雛子さんの卵焼きは甘すぎる」とか「父が甘党だから仕方ない」とかごくごく自然に弁当を食した。
私はその距離感と周りからの視線に耐えられず食事が喉を通らない。一体どうしてしまったというのだろう。これもまた『絶望同盟』の活動の一環なのか。私は彼の友人になれたということなのか。はたまた、友人を超えた何かを求められているのか……。
「食べないの?」
澄んだ瞳が覗き込んでくる。
「ダ、ダイエット中」
「ふーん。十分細いのに」
彼が私の弁当から卵焼きをひとつ箸で取る。ぱくりと口に含んでしばし。うん、と頷いて「こっちの方が好きだなぁ」と言う。きっと私が作ったものだということを分かって言っている。
「……なかなかの才能の持ち主だね……」
「うん?」
こてん、と傾げた首が可愛らしい。
母もこんな風に、男たちを篭絡していっているのだろうか。
「帰りも一緒に帰ろうね」
彼が言った。弁当箱を片付けている。食べるのが早い。そういうところはやはり男の子だ。
「青井くん、どうしちゃったの?」
私はたまらず聞いた。
「何が?」
「ライブの日からなんだか……別人、みたいな……」
「どっちかというとこっちの方が自然なんだけどな。遠慮しないことにしただけで」
「遠慮?」
「うん。今まで色々我慢してたし、いらないって思ってたけど、気が変わった」
「何かが吹っ切れたってこと?」
「そんなところ。山田さんは嫌? こういうの」
「嫌では……ない。でも私は何をしたらいいのかわからないよ。色々急すぎて」
「ごめんね。確かに急だよね。でもあんまり時間がないから、やりたいようにやろうかなって。迷惑だったら言って」
「時間がない? どういうこと?」
「……お弁当」
「え?」
「早く食べないと、昼休み終わっちゃうよ」
私が時計を見た瞬間、彼は立ち上がり自分の席へ戻っていく。そうして静かに読書を始めた。
取り残された私はお弁当を箸で突きながら考える。
やりたいようにやる。そのひとことが、何だか自暴自棄に聞こえてしまって不安だった。
絶望は、やっぱり継続しているのだ。
放課後、彼に連れられるままに帰路に就く。といっても、私は彼の家を知らないから方向
もわからないのだけど、どうやら彼は私を自宅まで送るつもりらしい。一度案内した道をそのまま通ってふたり並んで歩く。
いつからかひとりでいるのが当たり前になっていた。だから隣に彼がいることにそわそわした。
ずっと仲の良かった友人たちもいたはずなのに疎遠になっている。心当たりはあるのだ。両親が離婚したとき、日常が日常でなくなってしまった。
予兆はあった。父が帰ってこないとか、夜中にふたりの喧嘩をする声が聞こえていたとか、朝瞼を腫らした母の姿を見たりだとか。見て見ぬふりをして、何もしなかった。できなかった。触れるのが怖くて、結論をふたりに任せてしまった。
「さやかちゃん。お母さんと一緒に暮らそう?」
そう言われたとき、執行猶予が終わったのだと思った。私は迷うことなく母を選んだ。後悔はまったくない。だけど私が関わることで違った結果があったのかもしれないと思うと、後ろめたかった。私たちは三人で家族だったはずなのに私は逃げた。そうして母に甘えて、家族の構造が友人たちと変わってしまってからというもの、友人との関わり方も変わってしまった。互いにひどく気を遣う。引っ越しもして距離もできた。学校で会っても腫物を扱うように今まで通りの「振り」をして、それが落ち着かない。
だからひとりで居たほうが楽だったのだ。
誰とでも仲良くやれる。別にいじめや孤独に悩んだりもしていない。寂しいと思うことなどなかったはずなのに。
なぜだろう。彼が隣にいると浮足立つのだ。
私は自分がとても冷たい人間だということを知っている。
小学校の先生になって子供たちに囲まれたいとかそんなことを願っていた。それがおこがましいほど、両親にも友人にも、向けられた気遣いを見ていないことにして知らないふりをしている。何もなかったことにして、未来を確定させる勇気もない。情けないと思う。
だけど、青井傑はそんな私を見透かして許してくれている。今選ばなくていいと言ってくれた。
本当は私の絶望なんて世界の悲劇に比べればちっぽけなんだってわかっている。でも絶望してもいいんだって思わせてくれた。だから心地よい。隣にいてくれるのが、嬉しい。
「ねえ青井くん」
「うん?」
「あの日、どうして窓を割ったの?」
聞くべきだと思った。
彼が私の絶望を許してくれたように、私も知らなければならない。知ったうえで共有できるものがあるならしたいのだ。
「……」
彼は私を見て黙った。
迷っているのか、言いたくないのかわからない。でも目を逸らすわけにはいかなくてじっと見つめ返した。
すると彼は小さく俯いて、ふぅ、と息を吐いた。
「……希望が憎らしくなったから」
そうぽつりと言った。
瞳に温度がなく、薄く笑ってすらいた。
諦め。
それを心の底から表すならこんな表情だろう。
「さやか!」
急に名前を呼ばれてどきりとする。と同時に鈍器で頭を殴られたような衝撃が全身を駆け巡った。顔を見ずともわかる。だって生まれて十六年。呼ばれてきた声だから。
前を見ると電柱の陰から一人の中年男性がこちらに近付いてくる。
思わず後ろずさった。それを見た男が立ち止まる。こちらの反応にショックを受けている。それがわかった。
「何してるの……お父さん」
引っ越しの日以来だ。彼と会話をするのは。
母以外の別の女に入れ込みお金を使い果たして、それが発覚してからも許してくれと母にすがった男。
母は許さず私と家を出た。それ以降彼がどうしていたのかは知らないけれど、彼は泣く泣く私たちを見送ったはずだった。もう関わることはない。そう思っていたのに。
「お前もお母さんも携帯番号変えちゃうし、引っ越し先も教えてくれないからさ。会いに来ちゃったよ」
父親だった男はそれがさも愛のある行為のように恍惚として言った。
娘に会いに来た父親。そういうシチュエーションに酔っているような。
だが私はぞくりとした恐怖のようなものを感じた。
待ち伏せされたのだ。気持ち悪い。本気でそう思った。
「迷惑だよ」
絞りだすように、それしか言えなかった。声より先に、涙が出るかと思った。
感情がぐちゃぐちゃになる。
目の前にいる、体躯のいいよれたワイシャツの男。その黒々とした直毛は私と同じで嫌でも血の繋がりを感じる。
遊んでもらった思い出もある。愛してもらっていた実感もある。
だけどそれをこなごなにしたのは、お前じゃないか。
許せない。憎い。
でも、「会いに来た」その行動が、名を呼ぶ声が、親であることを否定しきれないのだ。
結論や判断を母に任せ、母についてきただけの私は、父を置き去りにした。
裏切られても、愛がそこにあったことを本能が理解している。
憎いと思うことがまるで悪いことであるかのように、ひどい罪悪感に苛まれる。
ああ。絶望の根源が。私の道を絶った元凶が目の間にあるというのに。
私はそれを全力で突き放すことができず、恐怖で立ち尽くす。
「あの」
私たちの間で声を上げたのは青井くんだった。
「あなた本当に山田さんのお父さんですか?」
「い、今は別居しているけれどそうだよ。君は? さやかのその……彼氏……とか?」
「はい。そうですけど」
「!?」
驚いて思わず彼を見る。
「なので言わせて貰います。あなたの存在は彼女を不幸にしかしない。彼女を苦しめたくないなら今すぐ立ち去ってください」
「なっ、何を言うんだ君は。事情をよく知りもしないで家族のことに口を挟むな」
「家族? 家族って何です? 血の繋がりですか? もう離婚してるんでしょう?」
「確かに離婚はしたけれど、さやかの父親であることは一生変わらないんだ。子供には分からないかもしれないけれど、子供のことを忘れられる親なんていないんだ」
「はっ。定型文のような反論ありがとうございます。その理屈が、今彼女を怯えさせているんですけどね」
言いながら彼が私の手を握る。
その時初めて私は自分が震えていることに気が付いた。
指先に血が通っていないみたいに冷たくなっていて、彼の手が異様に熱かった。
「こういうのって、犯罪になるんですかね。相談してみましょうか」
言って、彼は片手にスマートフォンを取り出した。そしてタプタプと画面を触る。
「な、何をして」
彼はそのまま耳にあてる。電話をかける呼び出し音が漏れ聞こえた。
「あ、もしもし。警察ですか?」
「!?」
私と父はぎょっとする。
「不審な男が女子高生を待ち伏せしていて困っているんですけど。はい。父親だと名乗ってはいますが彼女怖がってて。これってストーカーじゃないんですかね。はい。場所はーー」
彼が言い終わる前に私は彼からスマートフォンを奪っていた。慌てて通話を切る。
「何してるの!?」
「追い返そうにも、僕じゃ力不足だろうから司法に介入してもらおうかなって」
「じょ、常識はずれにもほどがあるぞ! 俺はさやかの父親だ! 父親が娘に会いに来て何が悪い!」
「悪いかどうかを決めるのはあなたじゃない。ちなみにこういう場合、発信元のGPSをたどって警察は駆けつけますよ」
「!」
ひっ、と父の顔がゆがむ。
「さやか……」
すがるような声がねっとりと絡みつくようだった。
「帰って。早く」
「でも」
「早く! それから、お願いだから二度と顔を見せないで!」
顔を見ずに言った。言い捨てた。私はまた自分のために、ひどく冷たいことをしている。
でも、青井傑は私の手をぎゅっと握った。それでいいと肯定するみたいに。
「……」
父はひどく傷付いた顔をして、次の瞬間には真っ赤に怒って、
「恥をかかせやがって!」
と叫んで去っていった。
聞いたことがないほど憎しみの籠った声だった。私は自分が父親だと思っていた男の本性を初めて見た気がした。父親だと思っていたことが、悔しかった。
「大丈夫? 山田さん」
「え……?」
ハンカチを差し出されて泣いていることに気が付いた。
泣きたいわけじゃないのにぽろぽろと零れる涙を慌てて拭う。青井傑がハンカチを頬に当ててくれる。
「怖かったね」
言われて、私は「うぅっ」と嗚咽を漏らしてしまった。
自分がまだこんなにも子供であることが恥ずかしい。それでも彼が隣に居てくれてよかったと心から思った。
「また助けられちゃったね」
必死に笑おうとすると、彼も苦笑する。
「頼りなくてごめんね」
「警察はびっくりした」
「ああ、あれは竹男……運転手のお手伝いさんに電話かけただけ」
「へ?」
「まぁ今頃慌ててこっちに向かってるのは確かだろうけどね、GPS、ついてるから」
苦笑の理由がわかって呆気にとられる。
「……青井くんってやっぱりやることが大胆」
「そうかな」
ははっ、と照れた。
「本当のヒーローなら、もっと……うまく……」
言いながら彼の表情が苦悶に崩れていく。
左胸をぐっと押さえて、はっはっ、と呼吸が浅く乱れていく。
顔面が蒼白になり、立っていられなくなるように膝からがくんとしゃがみこむ。
「青井くん?」
肩で息をする。額には玉の脂汗。
「だい……じょうぶ……」
言ったと思った次の瞬間、彼の顔面から表情が失せた。
糸の切れた操り人形のようにぐしゃりと地面に倒れこむ。
「青井くん……青井くん……!?」
必死に呼びかけるが反応がない。私の頭の中は真っ白になった。
繋がれていた掌は、先ほどまでの熱が嘘みたいに冷たかった。
小さい時、クラスメイトに眼鏡を壊された。
「お前んち金持ちだからいいじゃん」
とろくに謝りもされず、ぽっきりと折れた眼鏡のプラスチックのフレームを呆然と握りしめていた。
絶対に怒られる。そう思って家に帰れなかった。
今思えばいじめられていたのだと思う。有名人の息子だからという理由で目立つからいけないのだと父が嫌いだった。
ふらふらと彷徨うように歩いて歩いて、ランドセルが重くて疲れて、見つけた公園のベンチでぼんやりしていた。
母親と遊ぶ幼子の声がする。
とても楽しそうでシンプルに「いいな」と羨んだ。
物心ついたときには母はもう死んでいて、家族と呼べる人は父だけだった。その父もほとんど家にいない。仕事が忙しいのだと言うけれど、父は僕のことが嫌いなのだと思っていた。
母は僕を産んで死んだらしい。
母の生命を糧にして僕は産まれたのだ。
母を奪った僕のことを父は許さないだろう。写真で見る母はとても優しそうで笑顔の温かな人だった。生きていたら愛してくれていただろうか。幼心にそんなことを考えていた。
だから眼鏡が壊れたことを父に話すのがひどく億劫だったし家に帰るのも嫌だった。家には使用人の竹男と雛子さんがいたけれど、ふたりは親切なだけの他人だ。育てて貰ったけれど、「坊っちゃん」と呼ばれる度それが仕事なのだとわかってしまう。悪い人たちではなかったけれど甘えたいと思える相手でもなかった。
笑っている父を見たことがない。
僕は邪魔なんだと思うと、この病気であることは罰なんだと思えた。
心臓が悪かった。母の遺伝だった。手術で治すこともできない難治性の心臓病。苦しいのは母の生命を奪ったせいなのだと信じていた。
眼鏡まで壊してしまった。買ってもらったばかりなのに。これ以上父を困らせるのは辛かった。このまま消えてしまいたかった。
「どうしたの?」
同じ年ごろの少女が目の前に立っていた。
長い黒髪が艶やかで、大きな目がぱっちりと僕を映していた。
「わ、眼鏡、壊れちゃったの?」
僕が握りしめているものを見て少女は言う。
「ちょっと待ってね」
そうして彼女は肩から斜めに下げていたポーチから絆創膏を取り出した。「貸して」と手を出すので折れたフレームごと彼女に渡すと、彼女はベンチの隣に座って小さな膝の上で工作のように眼鏡に手当てを始めた。
ピンク色したキャラクターものの絆創膏が折れたフレームを繋ぐ。ぐるぐるに巻きついた絆創膏はしっかりと折れた部分を固定し、眼鏡は元の形に戻った。
「これでよし」
彼女は再び僕の前に立ち、そっと眼鏡をかけてくれる。
「治ったよ。これでちゃんと見える?」
言われて見上げた彼女の笑顔がひどく眩しくて僕はぼんやりしてしまう。今まで見ていた世界がパッと明るくなったようなそんな錯覚。眼鏡をかけたからだろうか。はっきりと見えた。
「もう大丈夫だよね? じゃああっちでみんなと一緒にあそぼ!」
彼女は僕の手を引く。急な誘いに戸惑ったが彼女は強引で、僕を連れた彼女を迎え入れる子供たちもみな表情が明るかった。友達と遊ぶ、というのが明るく楽しいものだということを初めて知った。温かい空気の中心に彼女がいる。きらきらと輝いて見えた。
夕方になると心配して迎えに来た竹男に連れられ彼女らと引き離された。ランドセルにGPSがついていたのだ。帰りが遅いので辿ってきたらしい。
別れ際、彼女は当たり前のように「また明日ね!」と言った。
僕は互いに名前も知らないのに約束なんて出来ないと思った。
でも「明日」がそうだったらいいのにとも思った。
返事もせずに別れ、家に連れ戻される。壊れた眼鏡にはぐるぐるに巻きついた絆創膏。
父は怒らなかった。新しいのを買いなさい、と、それだけ。
怒られなかったのに、何故か泣きたかった。
手当てされた眼鏡はそっと引き出しに入れてある。
次の日も、その次の日も、あの公園へは行けなかった。約束を破ったことを申し訳なく思いながらも、それでいいのだと思っていた。あの眩しさを知れただけで、十分だと満足していたから。
何年生きられるか分からないと言われ続けて、高校生になった。
ずるずると生き延びて入った高校で彼女を見つけた時には心臓が止まるかと思った。すぐにわかった。さらりと伸びた黒髪。光の灯る大きな瞳。少し気の強そうな、でも誰とでも笑顔で接する彼女は公園で見たときと変わらず輝いて見えて。
けれどそれが陰ったのはいつだったか。
彼女の家庭の悪い噂を聞くようになった。父親はクズで、母親は町一番のあばずれ。そんな話が彼女の耳に届いていたらと思うとぞっとした。だけど僕に何ができるわけもなく、同じクラスになった二年生の秋。覚えていてくれているなんて期待はしていなかったし関わるつもりもなかったけれど、進路希望調査表を呆然と眺める彼女を見つめた。
途方に暮れているように見えた。
どうして世界は、こんなにも冷たいのだろうと思った。
彼女はあんなにも温かかったのに。なぜ祝福を与えないのだろう。
どうでもいいクラスメイトたちの賑やかな声に苛立った。
誰でもいい。彼女を救ってあげてほしい。
誰か。
誰か。
でもそんな都合のいい話はないことを知っていた。
僕に未来があればよかった……?
そう考えたら身体中が燃えるように熱くなって、拳を握っていた。
衝動は抑えきれず、ガラスの割れる音と共に爆発した。
残酷な世界が、嫌いだ。
目を覚ますと嗅ぎ慣れた完璧な清潔の匂いがした。
真っ白な天井。糊のきいたシーツのひんやりとした肌ざわり。
左手がじんわりと温かくて、視線をそちらに向ける。
山田さやかがぽろぽろと涙を流しながらベッドに横たわる僕の手を握っていた。
「……病気のこと、聞いた?」
「……うん。さっき、お父さんから。お父さんは今先生と話してる」
「そっか……。泣かせたかったわけじゃないんだけどな」
そんなことのために近付いたわけじゃない。
君と僕の絶望は違う。
君にたくさんの幸せを残していけたらと、出来る限りを考えて。
「君が好きだよ」
同情でなく、哀れみでもなく、同盟だと寄り添ってくれたこと。嬉しかった。
「君が好きで、もっと一緒に居たいと思えば思うほど、僕は絶望するんだ。死ぬのが怖くなる。知ってしまった以上、君も悲しくなるだけだよね。同盟は、解散かな」
本当は知られることのないまま逝きたかった。あっけなく死んで、悲しみでも思い出になれれば。
覚えていて欲しい。
そんな浅ましい願望に彼女を巻き込んで。
その上同情されるのはまっぴらごめんだなんて、彼女は怒るだろうか。
「嫌だよ」
山田さやかが言う。大きな瞳は涙できらきら光っている。
「青井くんが窓を割った日から、私の毎日は変わったんだよ。真っ暗で何にも見えなかったのに、青井くんがたくさん驚かすから、見えないことも悪くないって思えた。私は夢を叶えられないのが悲しい。そんなのよくあることだってわかってる。くだらない絶望だって知ってる。でも君は馬鹿にしなかったじゃない。自分だって辛いのに、私を喜ばせようとしてくれたでしょう? そのお礼もなにも出来てないのに、解散なんて嫌」
ぐっと結んだ唇がへの文字になっている。泣いていても、彼女は愛らしい。
「青井くんの居ない生活なんて忘れちゃった」
我儘を言う子供のようだった。
「居なくならないで」
そう言うと、彼女は僕の手を握りしめてわんわん泣いた。
ああ、神様。
死にたくないです。
僕は彼女を好きになって、絶望を知りました。
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