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1、絶望同盟
四限目の終わりに配られた進路希望調査表。私はそれに絶望していた。
高校二年の秋。十七歳。花の女子高生で青春を謳歌していてもいいはずのお年頃なのに、気分はひどく重い。目の前のプリントには進路希望を三つ優先順位をつけて記入しなければならない。私はそこに全て『就職』と書かねばならないのだ。進学? 専門学校? 資格がどうの。上京がどうの。私には何もかもが他人事だった。
別に、最終学歴が高卒で就職するという選択肢が悪いことだとは思わない。自分で悩み、選んだ道ならばぜひ全力で突き進んで欲しいと思うし、応援もしたい。だけど私はそうじゃなかった。
教員になりたかった。小学校の先生に。大学に進学し教員免許をとって母校に就職する。それが所謂、私の将来の夢なのだ。
自分の通っていた小学校が大好きだった。二クラスしかない少人数の、家族のような友達と先生。温かな場所。そんな時代を忘れられずにいて、いつか帰りたいと思っている。
ではなぜ絶望しているかと言えば。
高校一年の春。入学してすぐのことだった。両親が離婚し、母子家庭となった。
離婚の原因は父親の不倫と借金。今日日よくある出来事だが、幸い私の母は強い人で、『私の美貌なら稼げると思うの』などと自信たっぷりに夜の仕事をはじめあれよあれよと売れっ子ホステスとなった。おかげで私は何不自由なく高校に通えているし衣食住に困ることもない。強いて言えば母は私が登校している時には寝ているし、下校するころに出勤する。なので母子の時間というものはほとんどない。ひとりの食事にもすっかり慣れて、学校にもってくる弁当も自分で作るようになった。一気に大人にならなければならないような強迫観念に、母に甘えてばかりいた私は日々怯えた。怖くて泣いた夜もある。そしてそんな私に母は、知ってか知らずかとても明るく言い放ったのだ。
「ごっめーんさやかちゃん。大学にはいかせてあげられないから、高校卒業したら働いてくれる?」
その時の衝撃を私はどう表現していいのかわからない。
目の前に巨大な穴が空いて、一歩も踏み出せなくなったような、今まで大事に育んでいた胸の中の卵がぐしゃりと潰れたような、とにかく戦おうという気にすらならなかった。
だって何も言い返せない。山のふもとにある小さな町で、いくら売れっ子とは言え田舎のホステスの収入なんて生活するだけで消えていく。それでも愚痴も言わずに働く母が、諦めろと言うのだ。きっと色んな手段を考えて、たくさんたくさん計算して、それでもだめだから私に言った。そう思ったら、「いやだ」なんて言えなかった。仕方ないよねって、頷くしかなかった。
そんな訳で、私は十六年間温めていた夢を諦め、高卒で働くという道を進まねばならないわけなのだが、こんな田舎に仕事なんてあるのだろうか。
私は握りしめていたシャープペンシルをカチカチノックしながら、第一希望、第二希望、第三希望、と空白を眺めている。これを書いたら最後、私の人生が確定してしまうような気がした。良いものか悪いものかはこの際どうでもいい。ただ今この瞬間が分岐点なのではないか。選ぶという選択肢はないのに、確定させることが怖い。だって本当ならまわりのクラスメイトのように、受験して進学して就活して、その合間に恋愛したりするわけだ。
じゃあ、私の人生は?
真っ暗過ぎて嫌になる。
「ねぇねぇ、この前の模試A判定だったんだけどもうちょい上の学校書いてもいいのかな」
「東京か大阪か迷うんだよね~。渋谷か、道頓堀か、みたいな」
「家から通いたい~。一人暮らし無理~」
教室のざわめきが、なんてことない不安や愚痴が、ささくれだった心をちくちく刺激する。
いいじゃん。行けるんだから。
いいじゃん。選べるんだから。
私は耳を塞ぎたくてたまらなくなった。こんなことで腹を立てる自分が嫌だった。
人と比べることで浮き彫りになる自分の「不幸」がみじめで。
教室を飛び出したい。そう思った瞬間だった。
「うるさい!!」
バリーンッ!
というガラスの割れる音とともに教室に大声が響き渡った。
その鬼気迫る叫びとガラスが割れたという衝撃に、全体がしーんと静まり返る。
窓側の席の後ろから二番目。学ランの少年の肩が震えている。
長く伸ばした前髪と眼鏡で表情は見えないがきつく結んだ口元だけが見えた。
彼の左手は割れたガラスの中心にあり、窓を叩いた……いや、殴った拳は固く握られ、小指の辺りからぽたり、と血が流れる。それを見たからか、「ひゃっ」という間の抜けた女子の声で止まった時間が動きはじめ、ざわついた。
「あ、青井。お前どうしたんだよ」
「ちょっとケガしてるよ!?」
「先生! 誰か先生呼んできて!」
一斉に騒ぎ始めた教室内で、青井傑は急に立ち上がり皆の視線を一心に浴びながら弾かれたように走り出す。「あっ」と誰も止める間もなく駆け出した彼はそのまま教室を飛び出した。
一瞬のできごとで理解が追い付かない。追い付かないのに、私の身体は勝手に動いていた。
「山田さん!?」
誰かが私の名前を呼ぶ。でも抑止にはならない。
だって、青木傑の方が今の私には重要だった。
うるさい。そう叫んだ彼に、私は救われたから。
教室を出て廊下を走り、階段を降りて上履きのまま非常口から外に飛び出す。
少し距離はあったけれど彼を見失うことはなかった。
青井傑。名前は知っているけれど話したことはない。父親が有名な音楽家で学校では知らない者はいないだろう。有名人といっても本人はひどく大人しく、いつも俯き加減で休み時間は本を読んでて、声だって授業の音読の時くらいしか聞いた覚えがない。男子にしては背も低くて私と変わらず、黒髪を伸ばしているから華奢なことも相まって女装が似合いそうだ。少し大き目な学ランが今後の成長を期待されているようでもあるけれど、中性的な雰囲気は目立たぬよう努力した結果なような気がする。
そんな観察をしながら彼を追いかけて校舎の裏庭を抜けて体育館から駐輪場へと走る。もしかして自転車通学? なんて思っていると、彼が急に減速し、がくっと膝をついて止まった。
「わわわわ」
勢い余って追い越しそうになり慌てて止まる。
彼はアスファルトの上でうずくまり、両肩で息をしながらゼェゼェ呼吸を乱している。それほどの距離を走ったはずではないが、やけに苦しそうで、胸を押さえて小さくなる彼に駆け寄った。
「大丈夫? 苦しいの?」
座り込む彼の背中をさすり覗き込む。顔面蒼白で脂汗をかいていた。具合が悪いのは一目瞭然だった。
「保健室行こう? 手も怪我してる」
ガラスで切ったのであろう左手も痛々しく、私はハンカチを取りだし傷口に当てた。
「放っておいて……」
絞りだされたか細い声にますます心配になってしまう。
「できないよ。保健室が嫌ならこのまま家まで帰る? タクシー呼んだらくるかな……あ、スマホ教室だ」
「山田さん……ほんとに大丈夫だから、気にしないで……」
とん、と軽く突き放された。それに少しむっとしてしまう。
「全然大丈夫に見えないよ! よしわかった。学校がいやならうちに行こう。ここで見つかってもどうせ怒られるだけだし、私もちょうど帰りたかったし」
「……え?」
「うるさいよね。教室。私も居たくなかったの」
私は強引に彼の腕を取り肩を貸した。
そして引きずるように歩きだす。
「すごい変な話なんだけど、スカッとしたの。あの瞬間」
バーン! と全部を壊すようなガラスの割れる音。あれだけは爽快だった。
「だからお礼させて」
そういうと彼は心の底から呆れたように「はあ?」と私を見上げた。
初めて目が合う。
「なんだ。結構イケメンじゃん」
前髪と眼鏡に隠れていたのは、どこか儚げな優しい目をした美少年だった。
学校から徒歩十五分。
せっかく引っ越すなら学校に近いほうがいいと母が選んだアパートは階段を登るとぎしぎし音がして壊れそうでちょっと怖い。
カギを開けて中へ入れば部屋は薄暗く、人の気配がなかった。
「五分だけ待ってて」
青木傑にそう言って部屋の中を軽く片づける。部屋に干してある母のゴージャスな下着は刺激が強いだろう。日頃から掃除はしてあるから汚れてはいない。人をあげても恥ずかしいような状態ではないけれど男の子を迎え入れる準備なんかしたことがない。とりあえず形だけは整えて一呼吸。よし、と満足してから彼を招いた。
「お母さん外出してるみたい。まずは治療するからそこのソファー座ってて」
玄関から入ってすぐにトイレと浴室。向かいに寝室兼母の部屋。小さなダイニングキッチン。そしてその奥に居間がある。二人掛けのソファーとローテーブルに、母こだわりのちょっと贅沢な液晶テレビ。横の本棚が私の私物入れになっていて宿題や勉強はこのテーブルでしている。
「お邪魔……します」
恐る恐るといった様子で入ってきた彼は少しきょろきょろと辺りを見回しながら言われた通りソファーに座る。女ふたりだけの居住空間は珍しいのだろうか。それともあまりの貧祖さに驚いているのか。有名音楽家の息子、なんて言われているくらいだから裕福な家庭なんだろうなぁなどと思いつつ、棚から救急箱を取って座る。
「傷見せて」
渡したハンカチを当てていたおかげか血は止まっているようだが、左手の端が浅く切れている。
「痛そう~!」
背筋にぞくぞくとしたものを感じながらも噴射式の消毒液を吹きかけ傷口を閉じるように大きな絆創膏で覆う。縫わなければならないほど深いものではないだろうが、動かせば痛いしお風呂は沁みるだろうななんて考えた。
「ありがとう」
恐縮したような小さな声がする。怯えているように見えるのは気のせいだろうか。いやでも待てよ? 今の状況、私が攫ってきたようなものなのか、と少し納得してしまう。
「飲み物いれてくる。ココアでいい?」
「うん」
私は立ち上がりキッチンへ向かう。まずは落ち着かせるべきだと思ったのだ。いまだ顔色が優れず、不安げな彼を見ていると庇護欲がうずうずしてしまう。
(でも。さっき窓割ったのは青井くんなんだよなぁ)
ココアの入った瓶にスプーンを突っ込みながら思い出す。
嫌になるくらい晴れ渡った空が見えていた。それがバリンと割れて砕けた。こんな気弱そうで軟弱な男の子の拳が、喧騒をぶち壊したのだ。あの瞬間駆け巡ったエネルギーを、私は知っている気がした。
「はいどうぞ」
ローテーブルにカップを置くと彼はまた「ありがとう」と繰り返した。男物のカップなんてないから子猫の柄の入った可愛いカップだけれど、それをそっと持ち上げふうふうとココアを冷ます姿はなかなか絵になっている。可愛い、なんて言ったら怒られそうだ。
「具合どう? 少しは落ち着いた?」
「うん。もう大丈夫。急に走ったから発作が出そうになっただけだと思う」
「発作? 喘息か何か?」
「まぁそんなとこ」
彼は薄い唇をカップにつけてこくっとココアを飲み込んだ。
「山田さんは大丈夫なの」
「え? 私? どこも怪我してないよ?」
「そうじゃなくて。僕についてきて、あまつさえ家に入れるなんて。怒られるよ」
「うーん。それは別にいいかな。内申書がどうとか、私あんまり関係ないんだよね」
自分用に淹れたココアをずずっとすする。優しい甘さが時間の流れを少しだけゆっくりにしてくれる。
「御覧の通り、うち貧しくて。大学行けないんだ。だから進路希望とか聞かれても、就職しか選択肢なくて。なんかそれに絶望しちゃってて。……そしたら青井くんが窓ガラスバーン!って」
スカッとした、と言った意味が少しは伝わったのだろうか。彼はきょとんと驚いた眼をして私を見ていた。
「だからいいの。あの時爆発してたのは私の方だったかもしれないから」
でもきっと、私は「うるさい」のひとことも言えなかっただろう。本当はわかっている。うるさいのは周りの声じゃない。私自身が言いたくても言えない言葉の数々が頭の中で騒ぐから、その醜さが嫌なのだ。嫉妬、妬み、被害者意識。そういうどろりとしたものに負けるのが辛いのだ。
「……絶望かぁ。そうか。そうだったんだ。僕絶望してたんだね……」
カップの中をぼんやりと見つめながら青井傑は言う。薄っすらと笑っているように見える。
「青井くんは嫌なことでもあったの?」
「いいことを探すほうが難しい、って今気付いた。でも、山田さんと話せたのはいいことだから窓割ってよかったなって思う。光を見つけて影を知る、ってこういうことを言うのかな」
「は? 何? 中二病的な……? よくわかんないけど、自分でもなんで窓割ったかわかってなかったの?」
「そう。わからなかった。身体が勝手に動いた気がする。でも今言葉にしてわかった。これは絶望。絶望なんだね。僕たちは絶望仲間だ」
ふふ。と不思議と楽しそうに彼が笑う。どうしちゃったんだろう? 何を考えているのかよくわからないけれど、何かに納得はしたらしい。
「言いたくないなら聞かないけどさ。もやもやしてるなら話くらい聞くからね。聞くくらいしかできないけど、絶望仲間? いや、絶望同盟だ。お互い、苦労しますなぁって話すくらいしてもいいと思う」
「山田さんって良い人だね。面倒見いいのは知ってたけど、お人好しだ」
「お? 早速悪口?」
「褒めてるんだよ。僕、ずっと君を見てたから」
「……え?」
ガチャガチャ
急に玄関のドアが開く。
びくり、と身体を跳ねさせると同時に、母の「あー!」という甘ったるい声が響いた。そしてどたどたと居間に現れる。
「さやかちゃんいたー!」
明るい色をした長い髪をふわふわとカールさせ、真っ白なワンピース姿の母が両手に買い物袋をぶらさげている。
「学校からスマホに電話が入ってびっくりしたんだよ!? 急にいなくなったって言うから心配したじゃない。学校じゃ警察呼ぶとか大騒ぎしてるわよ?」
「け、警察!?」
私と青井傑は顔を見合わせる。事態は思っていたより深刻らしい。
「すぐに探しますんでって待ってもらってるけどおうちにいるなんて~。荷物置きに帰ってきて正解だったわねぇ。……で、その男の子はだあれ?」
「クラスメイトの青井傑くん。今日、窓ガラスを割りました」
「まあ。青春ねぇ」
「すみません。山田さ……さやかさんに大変なご迷惑を」
「いいのよう。この子がしたことならお母さん信じる~。でもとりあえず学校には行かなきゃね? お母さん着替えるからちょっと待っててね」
言って、母は自室へと向かい、ふと立ち止まってこちらを見る。
「さやかちゃんったら、お母さんに似て面食いなんだから」
うふ。と笑って部屋へ入った。
言われた意味を一瞬考えて、はっとなる。
「違うから! 今日初めてしゃべったから!」
頬が熱くなるのを慌てて隠したが青井傑と目が合った。
そう。私たちはこの日初めて会話をした。そうしてその日の内に『絶望同盟』を結んだのだ。
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