7人が本棚に入れています
本棚に追加
私の名前は、フローレンス ナイチンゲール。
世界中の人々が私のことを「クリミアの天使」と呼びます。
しかし、私は「天使」ではありません。
ただ、もしもこの世に「天使」がいるのであれば、天使とは花を撒き散らしながら歩く者ではなく、人を健康へと導くために忌み嫌う仕事を感謝されることなくやりこなす者のことだと思います。
私は病や怪我に苦しむ人達の助けになりたい、と思って生きてきました。
クリミア戦争では多くの負傷兵が、放置に近い状態になっていました。
私達看護団はクリミア戦争に従軍しようとしました。
けれど、軍にはすでに医官がいましたので、従軍は拒否されました。
そこで、私達はトイレ掃除をさせてくださいと申し出ました。
トイレ掃除は、誰もがやりたくない仕事でした。
なんとか、従軍することができました。
病院は常に汚れていていました。
掃除には終わりがありません。
毎日毎日続けました。
また、夜中に苦しみを訴える患者さんも多くいました。
暗闇の中で誰にも知られることなく苦しんでいる患者さんをいち早く発見したい。
そう思い、夜の見回りも行いました。
なので、私のことを「ランプの貴婦人」などと呼んでくれる患者さんもいました。
私の見回りが暗闇の中の患者さんの心の救いになっていたのなら幸いに思います。
頑張りは少しずつ世間に伝わっていき、なんと女王様にまで届きました。
ビクトリア女王様は私に対し、現状を報告するよう命じました。
女王様が現状を気にかけておられるということで、病院にいる負傷兵たちも働いている人たちも、勇気づけられました。
しかし、病院での死亡率は上がる一方でした。
42%の患者さんが亡くなってしまうのです。
いくら手当をしても快方には向かわない。
それはとても虚しく、辛い現実でした。
私は、病院内がとても不衛生であることが、いつも気になっていました。
病院を清潔にすれば、感染症は減るのかもしれない。そう思っていました。
そのことを、医師や行政に訴えてみるのですが、感染症と衛生状態は関係がない、と言われてしまいます。
科学者たちは、感染症を防ぐことができるなど、なんら科学的根拠もないことで迷信に過ぎない、と笑い捨てるのです。
本当にそうなのでしょうか。
やってみなければ分かりません。
とにかく病院を清潔にすることに身を捧げました。
また、病室の換気も心がけました。
病院は清潔であるべき、その支援を行政に要請し続けました。
戦時省と陸軍省が合併したことがきっかけで、私の要求がやっと軍医の世界に届きました。
軍の方から正式に、病院を衛生的にすること、という命令が出たのです。
衛生のための人員や物資が充実してきました。
こうして、病院を清潔にする努力を続けた結果、当初は42%だった院内死亡率は、今や5%まで下げることができました。
環境を清潔にすることで感染症を防ぐことができるということを、私は証明してみせました。
私は理想の病院を設計してみました。
換気ができる窓を必ず設置すること、ベッドの間は適切な距離を取ること、病院内での衛生設備やナースステーションの位置などを図面にして提案しました。
温水用の配管は各階に設置すること、患者さんの食事を上の階へと運ぶためのリフトを設置すること、患者さんがいつでも看護師を呼び出せるように、病室に呼び鈴を設置すること、これらを病院運営委員会に要求しました。
私が考えた病棟設計図は「ナイチンゲール病棟」として、イギリスに限らず、ヨーロッパでの病院建設で採用されることになりました。
私は、環境を良くすることで病気は防ぐことができると思っています。
病気というものは、自覚をしていなくても実は進行していて、それまでの生活や環境の結果、発現するのではないか、そう考えています。
つまり、病気には「潜伏期」というものがあり、この状態の時の過ごし方によっては、病気の発症を抑えることができるのではないか、そう思っています。
科学者や医師たちからは、そんな非科学的なことなどあるものかと、馬鹿にされ続けました。
けれども、環境を良くして過ごせば、病気の発症率は低くなると思うのです。
そこで私は、病気に関して統計を取りました。
病気は様々な要因で発症しているように思うからです。
発症の原因と考えられる要素、それぞれの度合いをグラフで表してみることにしました。
真ん中に点を打ち、そこから放射状に複数の要因を度合いに応じて表します。
このグラフによって、複数の要因をまとめて表示することができるのです。
私が考えたこのグラフは、統計学会の雑誌に掲載され、紹介されました。
世界中の数学者や統計学者が、私のグラフを称賛してくれました。
なんと、アメリカの統計学会からは名誉会員に指名されました。
私は看護師ですが、統計学者として認められるとは意外でした。
私の考えたグラフは「レーダーチャート」と名付けられ、世界に広まっていきました。
私は看護師として2年半、現場で働いてきました。
戦争が終わってからは、理想の看護のあり方について、本を書くことにしました。
そして、看護師を養成することにも心血を注ぎました。
私はよく、「天使」と呼ばれましたが、看護は天使による神秘的な行為などではありません。
看護とは、実際的かつ科学的で系統だった訓練を必要とする逸出の芸術であると考えています。
医師は患者を治療します。
しかし、実際は患者自身の「治ろうとする力」で病気や怪我は治っていきます。
看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさを適切に保ち、食事を適切に選択し管理することであると考えます。
つまりは、患者の生命力の消耗を最小にするように整え、患者自身の治ろうとする力、いわば本人の治癒力を最大限に引き出すことこそが「看護」だと思うのです。
看護師を目指す学生にいつも語って聞かせていることがあります。
看護師とは大きな犠牲を必要とする仕事であるという認識があります。
もちろん、楽な仕事ではないことは確かです。
看護の世界は厳しい、それは事実です。
しかし、看護は犠牲行為であってはなりません。
人生の最高の喜びの一つであるべきです。
自己犠牲に頼る援助活動は長続きしないのです。
犠牲なき献身こそ真の奉仕だと思います。
看護師として活躍する人々が、心折れることなく、長く人々の健康のために貢献できることを願っています。
人々の健康のために生きたいと思っていた私は、恥ずかしながら37歳で心臓を病んでしまいました。
私の生活の場は、ベッドの上だけとなりました。
こんな私でもできることはあるはず。
そう思い、私は本を書くことにしました。
私が書いた本は150冊になりました。
けれども、看護は机上の学問であってはなりません。
私の書いた書物は、あくまで実践の補助であるべきです。
現場に立てないことを心苦しく思っています。
私は社会的弱者となりました。
イギリスには私のように働くことができない人が、他にもたくさんいます。
貧しくて医療を受けることができない人もたくさんいます。
いくら病院を充実しても、医師や看護師、技師を養成しても、貧しい者たちはその恩恵を受けることができません。
そういった人達は、哀れみの対象であってはなりません。
みな、等しく人間なのです。
社会的弱者に対し、食べ物を与えればそれでよいというわけではありません。
もし、体が丈夫なのであれば、彼らを自立できるようにするため、訓練を施すことも必要です。
そうして、弱者であっても社会的に自立させていくことも社会的責任の一つだと考えています。
私の訴えは、イギリス政府に届き、首都救貧法という法律が制定されました。
イギリスは社会福祉に積極的に取り組むようになり、福祉政策のスローガンは「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれ、世界中に広まっていきました。
看護師は、以前はただの召使のような雑用係でしたが、私は看護こそ専門的な知識や技能を備えた専門職であるべきと考え、「看護学」を成立させました。
私自身は、こうして数十年間もベッドの上での生活でしたが、世間は私のことを「近代看護の母」と呼んでくれました。
それは恐れ多いことですが、私の成したことが後世に引き継がれるのであれば嬉しく思います。
私は世界中の人々から、「クリミアの天使」と呼ばれましたが、私は天使ではありません。
どうか、私の墓標には名前を刻まず、イニシャルだけにしてください。
< 了 >
最初のコメントを投稿しよう!