拝啓、天使さま。

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 深夜、真っ暗な廊下をそろそろと歩く。寝静まった家族を起こさないように、ゆっくりと、慎重に。心臓の音がうるさくて、指先が小刻みに震える。見つかったらどうしよう。怖い夢を見たって言ってごまかそうか。それともテストのために勉強をしていたって言おうか。フローリングが咎めるようにギシリと鳴いた。  思えば、こんなことをしたのは初めてかもしれない。小学生、中学生と、私はずいぶんと良い子ちゃんをしてきた。別に演じていたわけじゃなく、ただなんとなく、悪いことをする機会に恵まれずに、ここまで流れついてしまった。校外学習で部屋を抜け出して男子と落ち合うことも無く、夏祭りで門限を破ることも無く、ここまで流れ着いてしまった。道の逸れ方なんか分かるはずもなく、道草の食い方も、肩の力の抜き方も、ふざけ方も知らずに来てしまった。寄り道の仕方も、買い食いのアイスの味も、知らないことばかりのままで、遠くから眺めるばかりで、ここまで来てしまった。今いる場所は悪い場所じゃないけれど、今いる場所はどこなんだろう。今いる場所にも友だちはいるけれど、本当の私はどこにいるんだろう。  電気を1つもつけないままで、私は自分の部屋から1階に降りて、キッチンに入った。今日のために何度も練習した。夜遅くまで起きている練習に、静かに廊下を歩く練習。目を瞑って手探りでキッチンまで行く練習。口に出さずに考えごとをする練習。棚に手を伸ばす。塩の入ったボトルを取って、手の平に少しだけ出す。部屋から持ってきたミネラルウオーターを開けて、塩と一緒に口に含んだ。音がしないようにゆっくり吐き出して、手も洗う。 「身を清めなきゃいけないの」  頭の中で声がする。夜にお風呂も入ってるから、体の方は大丈夫なはず。 「DMならなんでも良いんだってさ」  スマートフォンを点けて、眩しさに目を細める。光量はすぐに調整されて、画面にはインスタが表示された。同級生の楽しそうな投稿を見るばかりのアカウント。投稿できるようなことなんか思い当たらない私のアカウントが表示されていた。私はDMのアイコンを触ると、宛先の欄に自分のIDを打ち込んでいく。 「最初に”拝啓、天使さま”ってだけ送ってね」  その話はどこからともなく、私の生活に忍びこんできた。広告動画だったかもしれないし、朝の情報バラエティだったかもしれない。クラスで誰かがしていた噂話だった可能性もある。とにかく、私はいつの間にか”天使さま”について知っていた。深夜2時。誰にも見つかっちゃいけない。塩で身を清めてから始める。DM機能があるSNSなら何でも良い。LINEでも良い。とにかく自分のアカウント宛てに自分でメッセージを送る。 「自分のアカウントに自分でメッセージ送るって時点でキモくない?」  肩が震える。誰かに言われたかもしれない罵詈。まだ言われていないだけの雑言。届いていないはずの音が鼓膜を通さずに脳を揺らす。首を振って、練習した通りにメッセージを打ち込んで、送信する。すぐに既読マークがつく。自分で自分に送っているんだから、当たり前だ。  ”拝啓、天使さま”と表示された画面を見つけた。1分。2分。画面は動かない。私は何を期待していたんだろう。何を問いかけるつもりだったんだろう。あと数時間で朝が来て、私は学校に行かなきゃいけない。またあそこで、長い1日をやり過ごさなくちゃいけない。何の取り柄も無い自分に向き合い続けなきゃいけないんだ。せめて、もう寝なきゃ。こんな馬鹿なことしないで、もう。 「こんばんわ」  画面が動いた。ぼやけた視界に文字が浮かんだ。 「1つだけ、お答えします」  知っていた通り。返事が返ってくる。1つだけ何かを聞くことができる。何を聞こう。練習していたのに、いざとなると欲が出る。どこの大学に受かる?勤める会社は?結婚相手は?そもそも結婚する?何歳で死ぬ?彼氏はできる?次のテストで出る問題は?絞ったはずの質問。捨てたはずのハテナが溢れて、溺れてしまったみたいに息ができなくなる。苦しくなる。”私は”と打ち込んだまま進めない。声が出そうになるのを必死でこらえて、1文字ずつ、画面に触れていく。 「私は幸せになれますか」  やっとのことで送ったメッセージに、天使さまの返事は2文字だけ。 「はい」  それでも、なぜか救われた気がして。私はそのまま、丁寧に続けた。 「天使さま、お帰りください」  それきり止まった画面に、私はメッセージを続けた。 「ありがとうございます。がんばります」  天使さまは帰った。誰もいない。だからこれは誰にも届かないメッセージ。私から私に向けたメッセージ。  朝になってつけた画面には”お幸せに。”というメッセージが増えていた。きっと寝ぼけた私が送ったものだろう。でも、頑張ろう。天使さまが私に、幸せになれると言ったのだから。
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