喪失の鐘

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喪失の鐘

 白球を追いかけてユニフォームを泥だらけにした部員たちに水を渡したり、監督に言われてなにかの記録をつけたりしているマネージャーの柚葉(ゆずは)は、チラチラと校舎の三階を見ることがある。  テスト期間中ということもあり、早めに練習が切り上げとなった。ボールを拾っている彼女に、キャプテンの前田(まえだ)が声をかける。 「市井(いちい)さん、この後、みんなとファミレスに行くんだけど、一緒にどう?」  柚葉は、彼の眼の奥に潜む魂胆(こんたん)を見逃さなかった。 「ごめんね、テスト勉強をしたいし……また今度ね」 「そっか。なら、仕方ないかなあ」 「ほんとうに、ごめんね。今日は、どうしても……」  残念がる前田の後ろ姿を見送ることはない。三階の方へと目を向ける。そこには、美術室がある。  卒業製作に取り組んでいる梨野(なしの)は、イーゼルをふたつ置いて、片方にカンバスを、もう片方に日本史の要点をまとめたノートを立てて、真剣に絵を描いては、休憩としてテスト勉強をしている。美術室には、ほかに誰もいない。  門限になるまで、ここにいるのは、梨野だけだ。  ただでさえ六人しかいないのに、部長の梨野以外は幽霊部員の美術部。いままで、ひとりでいないときなど、ほとんどない。誰かがいるとしても、絵を描いているのは梨野ただひとりである。  ここにいるのは梨野だけだが、ここに来るひとはいる。 「梨野くん、いまちょっといいかな?」  話しかけないでほしいという雰囲気を出しているにもかかわらず、物怖(ものお)じもせずにそれを破ってくる柚葉のことを、彼は苦手としている。 「なにか用があるの?」 「ええっと……」 「なにもないなら、帰ってくれると助かるんだけど」  もう話しかける言葉も尽きてしまっている。絵が進んでいることも見れば分かるし、帰る時間だって知っているし、体調のことは聞くまでもなく教室での様子で察することができる。  だから「どれくらい?」も「いつ?」も「どう?」も封じられているわけで、もう思い切って、「美術室に行ってみてから考える」という風にしたのだが、それは梨野を苛立(いらだ)たせるだけで逆効果だった。  言葉につまった柚葉だったが、すげなくされることに悲しくなって、思い切って大声をだした。 「好きですっ! 付き合ってくださいっ!」  言ってしまって、せいせいした。このまま取り(つくろ)い続ければ、嫌われる一方だ。だからその前に、どうなってもいいから、想いを告げるしか――告げたくてしかたがなかった。 「うん、べつにいいよ」  その思いもしなかった返答に、柚葉の心身は固まってしまった。ほんとうに承諾をしてくれたのか、おずおずと念を押すと、聞き間違いではないことが分かった。あまりの嬉しさに、梨野の言い方に気を悪くすることもなかった。  夕焼けに満たされていく美術室では、梨野の火照った顔は、色も熱さも忍ばされざるをえなかった。  前田はふたりが付き合っていることを知らないから、いくらでも遊びに誘ってきたし、ボディタッチなどのスキンシップも忘れなかった。柚葉がそれに不愉快を感じるのは、もちろんのことだった。  だけど、ここで梨野の名前を出せば、彼がどんな目にあうかしれないと、びくびくしていた。校舎裏に呼び出されて、暴力をふるわれるのではないかと。そんな想像が頭を駆け巡っていた。  それなのに―― 「市井さん、今日は教室で待ってるから」  と、グラウンドを通りかかった梨野が声をかけてくるのだから、度肝(どぎも)()かれてしまった。前田はふたりの関係を、瞬時に見て取った。そしてあのクラスの隅でひとり、絵を描いたり勉強をしていたりする男子が、想い人に手を出したことに憎しみを感じた。  それだけではない。屈辱も覚えていた。ハイスペックと認められている自分が、高嶺の花とされている学校一のマドンナと付き合うことができず、あのなんの取り柄もなさそうな男子に先を越されたということが。  となると、手段はひとつしかなかった。柚葉が想定しているシナリオの上をいく所業を考えていた。  自ら手を出せば、下手したら退学処分になってしまう。知り合いの伝手(つて)を頼り、他校の不良の生徒に()めてもらうことにしたのである。  梨野は芸大に進学し、柚葉は四大に入学した。  あの軽率な梨野の言動が、ふたりの仲をぶち壊してしまい、のみならず柚葉は、前田と付き合わざるをえない運命になってしまった。そして、あらゆる不幸を(こうむ)った。前田は同級生たちが考えている以上に、悪い仲間を何人も持っていたから。  柚葉はどれだけ梨野を憎んだか分からない。前田が一番の悪であるのは承知している。しかし感情において、一番(ゆる)すことができないのは梨野の方だった。そして、もっとうまくしていれば、幸福でいられたのではないかという後悔は、彼女を何度も苦しめた。  成人式の日の約一週間後に、同窓会が開かれた。  前田が(へい)の中にいるということが話題に上ったとき、みんな、本当はあいつを危険な奴だと認識していたと、後出しじゃんけんのようなことを言いはじめた。  柚葉は自然と梨野の姿を探した。休日の学校を貸し切って(もよお)された同窓会。だとするならば、もしかして――  雨曇りの空から、ぽつぽつと雫が落ちてきて、窓にうだうだとした線が描かれはじめた。イーゼルをひとつだけ立てて、その上に美術室の鍵を置いていた。  先生の前での行いがよかったから、特別に貸してもらえたのだと思う。そう彼は言った。 「わたしが、あのひとと無理やり付き合わされたとき、どんなことを思ってたの? あのあとも、いつも通りにしていたでしょう……」 「いつも通りじゃないよ」 「えっ?」 「市井さんが美術室に来なくなったから」  そう言いながら梨野は、美術室の鍵をしまって、バッグのなかからクロッキー帳を取り出した。 「これ、高校生のときのクロッキー帳。正確にいうと、市井さんがいなくなってから描いた……日記みたいなもの」  右隅に日付が記されているそのクロッキー帳には、柚葉の横顔がいくつも描かれていた。 「ストーカーみたいで、気持ち悪いでしょ。当時は……未練たらたらだったんだ。だから、自分の卒業製作を早めに片付けて、門限を報せるチャイムが鳴るまで、教室での市井さんのことを思いだしながら描いてた」 「そうなんだ……なんだろう。嬉しいというより、悲しいかな。想ってくれていたってことを、知っていたかった。そうだったら、少しは心強かったのに」  柚葉はクロッキー帳を抱きしめた。涙は流れることはなかった。身体がびくびくと震えた。 「ひどいよ。ほんとうに」 「うん、いま思うと、後悔しかない」 「あのとき、そう言ってくれていればさ……」 「どうすることもできなかった、なんて言い訳は、通らないと思う。それは、自分でも分かる」 「もし、やり直せるなら、やり直したいよ。好きなひとと、一緒にいたかった」  うずくまってしまった柚葉の肩をさすって、梨野はなにかを言おうとした。しかしなぜか、休日なのにチャイムが鳴って、そのまま押し黙ってしまった。  梨野は、そっと、包み込むように柚葉を抱きしめた。  〈了〉
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