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宮崎市内から海岸沿いに南へ、県営バスに揺られて小一時間。車は途中で海とは反対側の斜面の方へと分け入っていき、エンジンに悲鳴を上げさせながらジグザグに上っていったその先で、急に視界が開けた。
八月の南国、陽のまぶしさは痛みさえも感じさせる。いましも坂を上り終えようとしているバスの先には、発射台から打ちあげられる直前のロケットから見える景色にも似て、ただ遥かなる天空だけが広がっていた。
綾子は単語帳にしおりを挟むと、ぱんぱんに張ったバックパックの中にそれを無理やりに押し込んだ。制服のスカートについた埃を軽く払うと、バスのフロントウインドウの上に設置されている電光掲示板をちらりと見る。目的の停留所はもう目と鼻の先だったが、綾子はあえて降車ボタンを押さなかった。終点なのでわざわざ押す必要がないことは運転手も了解済みだったようで、料金箱の読み取り部にICカードをかざした綾子を、彼はただ笑っただけで見送った。
バスを降りた綾子は、地面から立ち昇る陽炎と身体を包む猛烈な蝉しぐれに軽いめまいを覚えながら、目の前にそびえたつ巨大な白い建物を見上げた。大きな両面開きの自動ドアの上には、「県立青島病院」と刻印された大きなプレート板が掲げてある。いかにも田舎の郊外といった高台に近代的な建物は不釣り合いだな、などとぼんやりと考えながら、綾子はガラス扉を潜り抜けて施設の中へと足を踏み入れた。背後でドアが音もなく閉まると、途端に蝉の声はかき消され、ひんやりとした冷気が病院のロビーの静寂を確かなものにした。
街中の小さな診療所はともかく、規模の大きな病院についていえば、夏というのは繁忙期である。遠方から通院する、あるいは何らかの形で入院が必要となった場合でも、夏季休暇を利用すれば日常に与える影響を最小限にすることができるため、受診にも入院にも人気の季節だった。
しかし午後四時半ともなれば外来はとっくに終了していて、広大な吹き抜けの空間となっているロビーも、人の往来は途端にまばらになる。柔らかな色彩の印象派風の絵画や、医療情報を啓蒙する漫画のキャラクターのポスターなどが、壁のところどころに掲示してあったが、それらはにぎやかさよりも寂しさを綾子に感じさせた。まるで、営業が終了して誰もいなくなった遊園地みたいだ。
磨かれた白い床が立てるこつこつという自分の硬い足音を聞きながら、綾子はエレベーターのすぐそばにある三人掛けの椅子まで歩いていくと、腰を下ろして再び単語の暗記に没頭し始めた。エレベーターが開くたびに綾子はそちらへちらりと目をやっては、降りてきた人が待ち人ではないことが分かると、再び手元に目を落とす。それを何度か繰り返しているうちに、ついにお目当ての彼女が来た。
「あーこ、お待たせ!」
マスクをした長い黒髪の少女が、エレベーターから勢いよく降りてくると、綾子に向けて大きく手を振った。ピンク色の病衣もはしゃいだ彼女にかかれば、パジャマパーティーのそれに見えてくる。すれ違う看護師が眉をひそめていることに綾子は恐縮したが、大声を上げた当の本人は全く気にすることもなく、彼女の方へと小走りに駆けてくる。綾子は単語帳を慌てて閉じると、立ち上がって小さく手を振り返した。
「お疲れ、夏希。今日、例の点滴治療だったんでしょ。吐き気、大丈夫なの?」
夏希と呼ばれた病衣姿の少女は綾子の前で立ち止まると、にかっと笑ってピースサインを送った。
「平気平気、吐き気が出るのは決まって夜だからさ。それよりも私、喉が渇いたな。あーこ、もしかしていつもの奴、ある?」
期待に目を輝かせる夏希に、仕方ないなあ、と綾子は苦笑を返す。バックパックをごそごそと漁った綾子は、ふたの付いた大きなプラスチック製のカップを二つ、これみよがしに取り出した。
「もちろん買ってあるよ、ご褒美のストロベリーシェイク」
夏希は綾子の首に両腕を回して抱き着くと、はじけるように笑った。
「あーこ、あんた私の女神だよ。こいつがないと私、治療拒否してここから逃げ出しちゃうもんね」
それは困る、と綾子は顔をしかめた。実際に夏希は、過去に二度ほど無断で院外に外出した前科があるのだ。
「ちょっと、離れなさいよ。病院のロビーで騒ぐと怒られるよ」
ようやく腕を解いた夏希は、顔を赤くした綾子の手をぐいと引いた。
「怒られるなんて私は慣れっこだけど、あーこに迷惑はかけたくないねえ。それじゃあ、いつものところで飲もうか」
強く握ってくる夏希の手の温かさに、綾子はどきりとする。こういう時の夏希の無頓着さが、綾子は好きで嫌いだ。
綾子と夏希は病院の二階へとつながる螺旋階段を上ると、途中の広い踊り場に設置されているベンチに並んで座った。階段に面した外壁は総ガラス張りになっていて、その巨大な窓からは、日南海岸から沖へと広がる海がどこまでもパノラマとして見渡せる。エレベーターがあるのにわざわざ階段を使う人など、ましてや病院ではほとんどいない。誰にも邪魔されずに雄大な景色を独占できるこの場所は、二人のお気に入りだった。
夏希はマスクを顔からむしり取ると、ストローを差すのももどかしく、満面の笑みでシェイクを飲み始める。本当に良く笑うな、夏希は。つられてふふっと声を漏らした綾子は、両手をベンチについて、ガラス越しに降り注ぐ陽光を全身に浴びた。
綾子はこの病院に入ると、いつもヨーロッパの聖堂を連想する。それは白で統一された内装が似ているとか、吹き抜けのロビーの天井がフレスコ画を飾るのにちょうどよさそうとか、そういう事ではない。それらの場所が共通して、常に身近に天使の存在を意識させるからだった。人の生死に一番近い場所。このベンチに座って真上を見上げるたびに綾子は、直線状に差し込む光の周囲に天使たちが舞っているような錯覚にとらわれる。
それでも彼女は、天使というものが嫌いだった。天使なんて、何かを告げるか、誰かを連れていくか。いずれにしても、綾子には無用の存在でしかなかった。
「ちょっと。あーこ、聞いてる?」
びくりとした綾子は慌てて夏希へと振り向くと、きれいな笑顔を作った。
「ああ、ごめん夏希。ここっていい景色だからつい見とれちゃって。それにしても、夏だねえ」
夏希はほとんど空になったシェイクの残りをずず、と吸うと、分厚いガラスで隔てられた遠い青空を眺めた。
「まったく、掛け値なしの夏ってやつだよ。だからさ、マスクなんて取っちゃいなって。そんな野暮ったい格好、乙女の青春には似合わないよ」
「でも病院の中だよ。着けとかないと怒られるんじゃない?」
「大丈夫だって。そのために、人気のないこんな踊り場で私たちこっそり会ってるんじゃん? それにさ」
夏希は綾子にぐっと顔を近づけた。
「それに、何よ」
「せっかくだから、あーこの顔をしっかりと見ておきたいじゃない。いつもメールばかりじゃつまらないし」
「何よそれ、ばかばかしい」
夏希ったら近視でもないくせに、そんなに近づいたりしたら私の顔なんてかえってぼやけて見えるじゃない。そう思いつつ、綾子は自分のマスクをくしゃくしゃと丸めると、それをポケットに無造作に押し込んだ。
満足そうにうなずいた夏希は、両手を頭の後ろで組みながら言った。
「あーこ。どう、受験勉強の調子は。ほら、こないだの校内模試とか」
綾子は目を細めて笑うと、かばんの中から一枚の印刷物を取り出した。
「ふふ、結果はお楽しみってメールで送ったじゃない? じゃーん、学年二位だよ」
綾子の成績表をひったくった夏希は、うがーと吠えながら頭を抱えた。
「おいおい、あーこ。あんたマジか。塾も行ってないのに二位って、頭の中どうなってんのさ」
塾なんて行かないよ、と綾子は苦笑した。そんなところに通っていたら、ここに来る時間が減ってしまうじゃない。夏希の時間に選択権がないんだったら、せめて私が自分のそれを行使することで、少しでも彼女の隣にいたい。有無を言わせないだけの成績をとり続けているのはそのためだ、夏希と会うことに誰にも文句は言わせない。
二度、三度と成績表を眺めた後で、上機嫌の夏希は綾子の頭をなでた。
「いやー、本当に凄いわ。こんな友達がいて、私も鼻が高いよ」
「身内びいきしちゃって、あんたは私のばあちゃんか」
「はは、そいつはいいね。けれどね、あーこ、私はあんたに期待しているんだ。将来あーこが偉くなった時にさ、あの人って実は私の友達だったんだよ、って皆に自慢できるじゃない」
友達だった、って、どうしてそこで過去形なのよ、と綾子は胸を締め付けられる思いだった。自慢するんだったら今すぐしてよ、未来の私たちなんてどうでもいいから。
綾子は表情を隠すように、自分のバックパックの中を覗き込んだ。
「夏希、私のことは置いといてさ。ほら、今日も授業ノートたんまりと持ってきたよ」
綾子からノートの山を受け取った夏希は、申し訳なさそうに苦笑いした。
「あの。いつも悪いね、と言いたいところなんだけれどさ。実は、あーこ……」
「何よ夏希、いつにないその歯切れの悪さは」
「いや、私も多少やる気はあるんだよ。けれど、その。二週間前に借りたノートも、まだ全然勉強してなくてさ」
せっかく授業ノートを作ってやっているのに夏希ときたら、などと綾子は思わなかった。抗がん剤の点滴を受けた後は、想像を絶する吐き気とめまいに襲われる。それこそ、徹夜でテスト勉強をする方が全然楽だと思えるほどに。気分が多少でもましなのは、前の点滴の効果が切れて次の点滴を打った直後、すなわち今くらいなものだろう。今夜になれば、彼女は枕元の洗面器に唾液を吐き続けながら、朝になるのをひたすら待つ羽目になる。
それでも綾子は、ただのさぼりの時と同じ態度で夏希にむくれて見せた。彼女を特別扱いなどしたくはなかった。
「もう、仕方ない奴。だいたい夏希は、受験どうするのよ」
「あー、受験ね。あたしは、その、今回はパスかな」
「今回は、って何よ。どうして受験しないの」
夏希は宙に目を泳がせながら、きまり悪そうに言った。
「いや、きっと大学行ったって、休学ばかりで単位なんか取れないと思うんだよね。それに、ここだけの話だけれど」
「何」
綾子に睨まれた夏希は、首を縮こまらせた亀のように恐縮しきっている。
「いや、おとといさ。私のクラスの担任の本条っちが、お見舞いに来てくれたんだよ。私、嫌な予感がして」
「どうして」
「だってさ、ただの担任が、普通教え子の見舞いになんて来る? これは何かまずい知らせがあるなって。そしたら案の定先生、私の卒業が相当厳しいって言いだしたんだよね、これが」
「ええ? 卒業が厳しいって、夏希。出席日数なら、病欠だから特例で何とかなるって言ってたじゃない」
身を乗り出して食って掛かる綾子を、夏希は両手を上げてやんわりと押しとどめた。
「落ち着いてよ、あーこ。日数じゃなくて、私の成績自体の問題なんだよ。あんたも知っての通り、私、ずっと赤点取り続けて来ただろ。もういい加減、やばいんだって」
綾子は自分のうかつさを呪った。入院がちな夏希のことだ、学校側も大目に見てくれるのではないか、などという根拠のない油断をしてしまっていた。
「ちょっと。どうしてそれ、早く言わないのよ。まだ何とかなるの?」
「どうかな。数学と英語、両方とも七十点以上取らないと、卒業できる合計点を下回ってアウトだって。それって正直、私の病気が治るよりも厳しい」
けらけらと笑う夏希を、綾子は憎らしく思った。ばか、そんな冗談聞きたくないよ。綾子は夏希の両肩をつかむと、がくがくと揺さぶった。
「私、来週から週二回ここに来るから。家庭教師、は違うか。訪問教師、してあげるからね。わかった?」
綾子の言葉に、夏希はさも迷惑そうに顔をしかめた。
「ちょっと、あーこ。私、それ、遠慮しとくわ」
「なんで? あんた大ピンチじゃん!」
「私さ、あーこの受験勉強を邪魔したくないんだよ。私に構ってあんたが大学落ちた時、私のせいだって言われても困るし」
綾子はかっとなった。そんなこと言うわけないじゃない。自分の大学受験に構って夏希が卒業できないなんてことになったら、それこそ私は自分を責めたてるだろう。
「舐めないでよ、夏希に勉強教えるくらいで入試落ちるほど、やわな勉強してないから! あと『落ちた』とか、受験生に禁句のセンシティブな言葉使わないで!」
「ちょっと、自分で言ってんじゃん」
「とにかく私、来週も来るから。それまでにノート、ちゃんと見といてよ」
夏希は苦笑すると、やれやれと頭を振った。
「いや、前から思ってるんだけれどさ。あーこ、どうして私にそんなに親切なの? 私、あんたにお返しなんてできないのに」
夏希の顔をまともに見ることが出来ずに、綾子は目をそらした。どんどん細く、透き通るように白く。点滴を繰り返すたびに夏希がきれいになっていくのが、綾子は怖かった。
理屈はないけれど、理由ならある。親切とかそんなのじゃない、もっとはっきりとした欲望。けれど、それは絶対に言えない。誰にも、まして当の夏希にだけは言えない、私だけの秘密。
夏希に聞こえないようにかすかなため息をついた綾子は、笑いながら右手を差し出した。
「お返しっていうならさ。夏希、あなたの携帯をちょっと貸してくれないかな」
「え、なんで?」
「こんどのお盆に大淀川で花火大会があるんだ、夏希知らなかったでしょ? 実は今年の奴は、リアルタイムで配信があるのよ。あんた今月いっぱいは入院中で見れないでしょ、だから夏希の携帯にアドレス追加しといてあげる」
花火、と夏希は天井を見上げて考えていたが、その想像は徐々に彼女を興奮させたらしい。
「うおー、花火ね。そういえば私、去年の夏も入院していたから全然見れてないな。けれど何で私の携帯に登録することが、あーこへのお返しになるの?」
「後で夏希の感想が聞ければ、それが私へのご褒美になるのだ。独りで見るなんてつまらないし、今年は一つ、携帯越しにあんたと語り合ってみようかと」
「はあ。あーこも大概ぼっちだねー」
夏希の携帯を受け取った綾子は、検索ボックスに「花火大会」の「は」の文字を打ち込んだ。すぐに、変換候補がいくつか表示される。刃や歯などのよく使われる言葉を差し置いて、その先頭に自動変換で表示されたのは、肺転移、という文字だった。
「どう、登録できた?」
覗き込もうとする夏希から携帯の画面を慌てて隠した綾子は、サイトの画面を素早く閉じた。
「あー、アドレス忘れちゃった。自分の携帯見ながら登録しておくから、悪いけれど、夏希はごみ捨てて来てくれない?」
「……ん。わかった」
要領を得ない表情で空のカップを二つ手に取った夏希は、離れたごみ箱の方へとぶらぶらと歩いて行く。
震える指で動画サイトのアドレスを夏希の携帯に登録ながら、早鐘を打ち続ける心臓を少しでも早く鎮めようと、綾子は自分の胸を押さえた。
たった一人の病室で彼女は、肺転移という言葉を調べていた。それが何を意味するのかは、馬鹿にだって分かる。夏希もまた、私に秘密を持っていた。きっとそれは、私の場合と同じように、私にだけは知られたくない秘密なのだろう。
お互いに知られたくない、ひとつずつの秘密。もし彼女が私に秘密を打ち明けてくれたなら、私も彼女に打ち明けられるのだろうか。それとも、私のほうから打ち明けるべきなのか。しかし結局のところ、どちらが先になっても、私も彼女も泣いてしまうに違いない。打ち明けたことを、きっと後悔するに違いない。
綾子はうつむいたまま、首を横に振った。
やめよう、そんな馬鹿なことは。優しい嘘があるように、優しい秘密があってもいいじゃないか。
「あーこ、あんた大丈夫?」
ゴミ箱から戻ってきた夏希の言葉にどきりとした綾子は、慌てて立ち上がると、持っていた携帯を彼女に押し付けた。
「えっと、何が?」
「時間見なよ、帰りのバスがもう出ちゃうよ。ここ、一時間に一本しかないんだからさ」
自分の携帯で時間を確認した綾子は、彼女の言葉が正しいことを認めざるを得なかった。
「おっと、いけない。それじゃあね夏希、次に私が来るまでに、ノート絶対見ておくんだよ」
「ちぇっ。あーこってば、本条っちより先生してるよ」
そんな会話を何気なく交わした後で、綾子は自分の言葉に愕然とした。
次。
次なんてあるの?
綾子は白い床にバックパックを落とすと、骨ばった夏希の身体を抱きしめた。夏希は驚きに目を見開いていたが、やがて困ったように笑うと、駄々っ子をあやすように綾子の背中をゆっくりとさすり続ける。
夏希の黒髪に顔をうずめたまま、綾子がつぶやいた。
「頑張って、夏希」
頑張って、なんて夏希には絶対に言っちゃいけない言葉なのに。
これ以上、彼女、何を頑張るっていうんだ。
それでも、私は。
「頑張って、絶対一緒に卒業するんだから」
夏希は、小さく笑った。
「了解、頑張ってみる」
もしも天使がいるのならば。
彼女に私の気持ちを告げないで。
彼女をどこにも連れて行かないで。
ガラスの自動ドアが開くと、途端に蝉しぐれが綾子を包んだ。背中に視線を感じて振り向いた彼女は、ロビーの中から夏希が大きく手を振っているのを見た。
どうしてあんたは、そんなに笑っていられるのよ。
ポケットに手を突っ込んだだままの綾子に向けて、夏希は両手をメガホンのように口に当てて叫んだ。
「あーこ。受験、ガンバ!」
綾子の顔がくしゃくしゃに崩れた。
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