残春

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「千隼、行こう!」 「おう」  腰高障子の戸を叩くと、すぐに返事があった。すぐそこの土間で、ごそごそと下駄を履いているらしい音がする。やがて戸が開いて、小柄な影が路地へ現れる。 「おはよう、佐一」 「うん、おはよう」  佐一はいつも通りのあいさつを返す。重い教本がつまった(かばん)を斜めにかけた千隼が、先に立って路地を歩き出す。佐一もあとに続いた。  五月に入ったばかりの、爽涼な朝だった。川沿いの道へ出ると、さえぎるものもない日射しがそこかしこできらめく。川上へ続く土手の緑が朝露に濡れて光っている。  八千川(やちがわ)のおもては青く、静かだ。澄んだ空気の中、対岸の家々の屋根もくっきり見えた。 「今日は座学だけだから、少し楽だね」 「そうだな」  千隼がうなずく。佐一の鞄にも、重い教本がぎっしりつまっている。これに実習で使う道着や訓練着が加わると、なかなかの大荷物だ。  これまでは学生寮にいたから、荷物なんて気にしなくてよかった。時間割のとおりに授業を受けて、教官たちの言うことに、ただ従っていればよかった。  いまはちがう。何もかも、自分の頭で考えなければならない。  川沿いの道は二つに分かれた。一方は川上へ続く土手の道、もう一方は上り坂だ。左へ切れ込む坂道を、千隼と二人で上っていく。道の両側の木々から、木漏れ日と鳥の声が降ってくる。  先を歩く千隼の足取りが重くなった。はっ、はっ、と息を切らして、小さな身体が左右に揺れる。無理もない、と佐一は思う。ついひと月ほど前まで、病院の寝台の上にいたのだ。長い入院で弱った身体が、まだもとに戻っていないのだろう。 「そんなに急がなくていいよ。まだ早いから、大丈夫」  佐一はのんびりと声をかける。千隼が振り向いた。 「ん、そうか」  左の袖がひらりと揺れる。新緑の匂いをふくんだ風に(ひるがえ)る、空っぽの袖。ついこのあいだまでそこにあったのに、いまはもう、どこにもないもの。  佐一はそっと目をそらした。正直まだ、馴れない。  二人の母校である揮皇館(きおうかん)は、小高い丘の上にある。  石づくりの正門をくぐって、ゆるやかな坂をさらに上る。ここは宿陽(すくよう)の町を見下ろす高台だ。緑の丘の上に、二棟の校舎と学生寮、講堂、格技場が立っている。中庭から続く雑木林が、そのすべてを包み込む。  玄関を入ると、ひと足早く来たらしい人影があった。下足入れの前にかがんで、上草履に履きかえている。佐一は朗らかに声をかけた。 「(いく)、おはよう」 「ああ、あんたたちか」  人影が顔を上げた。同期生の灰原郁だ。地味な(かすり)の着物姿は、どこにでもいる町の女にしか見えない。ついこのあいだまでは、自分たちも彼女も、そろいの濃紺の制服を着ていたのに。 「その格好、まだ見なれないな。町の普通の女の人みたい」 「お互いさまだろ」  佐一の言葉に、郁が肩をすくめる。自分も下駄を履きかえながら、千隼が首をかしげる。 「俺たち、何に見えるかな」 「さあ、何だろう。どこかの書生(しょせい)とか?」 「それにしちゃだいぶひねてるね」  他愛のないことを話しながら、三人で南棟の廊下を歩く。向かう先は教務員室だ。ちょうど戸が開いて、廊下に人影が現れた。 「おや、三人お揃いですね」  千隼と同じくらいの背格好の男は、気さくに声をかけてきた。揮皇館の教官が着る灰色の制服だ。左肩には、ついこのあいだまではなかった銀の肩章が輝いている。 「おはようございます、教官……いえ、二階堂学長」  千隼があわてて言いなおす。相手は微笑した。 「そんなに気にしなくてもいいですよ。私もときどき、自分の肩書きを忘れそうになります」  優しげに目を細める男は、少し前まで佐一たちの担任だった二階堂慎之介だ。やわらかい物腰とは裏腹に、皇派軍(こうはぐん)の精鋭部隊の出身という経歴を持っている。ひと月前、そこに新たな肩書きが加わった。揮皇館学長——いまでは彼が、この学校の総責任者だ。 「研修は順調ですか?」 「はい——たぶん」  二階堂の言葉に、佐一はあいまいにうなずいた。千隼が聞きとがめる。 「何だよ、『たぶん』って」 「いや、だってさ、俺たちついこのあいだまで教わる側だったから、何だか不思議な気がして」 「ああ、それちょっとわかる」  郁がうなずく。二階堂が微笑んだ。 「じきに馴れますよ」  おだやかな声を聞きながら、佐一は思う。馴れという点では、二階堂の方がよほど大変だろう、と。  揮皇館の前学長が自死というかたちで退いたのは、ついひと月前のことだ。あとを引き継いだ二階堂は、この春まではいち教官にすぎなかった。誰かが負わなければならない責任だ。ほかになり手もなく、選択肢はなかっただろう。  研修生という身分で、一年間の猶予をもらえる自分たちは恵まれているのだ。  午前九時が近づいてきた。二階堂と別れた三人は、それぞれ自分の指導役の教官のもとへ向かった。佐一は法学の担当教官にあいさつし、ともに一限の授業へ向かう。千隼は史学の見学、郁は医療教官の補佐だ。  三人はいま、揮皇館の教官になるための研修を受けている。来年のいまごろは、教わる側から教える側になって、教壇に立っているはずだった。  佐一は三年生の教室の後ろに立って、法学の授業を見学した。つい一年前に学んだことでも、教える側の目線で見ると、またちがって見える。試験の前に丸暗記したこと、居眠りでもしていたのか、ろくに覚えていないこと。懐かしいのとあわせて、やはり不思議な気持ちになる。  一度は卒業したこの場所に、またこうして立っている。伝習生(でんしゅうせい)でも教官でもない、研修生という身分で。本来なら、自分たちはいまここにいるはずではなかった。そして、ほかの同期生たちはもう、どこにもいない。  教室には空いた席が目立つ。今年の三月から四月にかけて、中退する者が相次いだからだ。無理もない、と佐一は思う。  三年間の学びの先に、あんな結末が待っていると、誰が予想しただろう。こんなはずではなかった、と思うのは当然だ。 「松本先輩」  授業が終わると、一人の伝習生が声をかけてきた。軍学校の生徒にしては、ひょろっと痩せて頼りなげな若者だ。濃紺の制服が、どこか借りものじみて見える。 「やあ」  一学年下の後輩、山田(すすむ)だった。佐一が二年生のころ、南陽(なんよう)の盛り場で、たちの悪い連中にからまれていたのを助けてやって以来のつき合いだ。佐一といつも一緒にいる千隼とも、自然と親しくなった。 「ずいぶん人が減ったね」  佐一が言うと、山田はちらりと教室を見回して肩をすくめる。 「まあ、仕方ないんじゃないですか」  山田は皇派軍の卵のくせに、腕っぷしは人並み以下という、一風変わった伝習生だ。要領がよくしたたかで、油断ならないところもあるが、どこか愛嬌があって憎めない。細かいことに気がきくし、何より「先輩、先輩」と懐かれれば悪い気はしない。千隼もきっと、同じように思っていることだろう。 「どうですか、研修はうまくいっていますか?」  後輩のくせに、二階堂と同じようなことを言う。佐一は苦笑した。 「まあ、いまのところはね」  いまの自分たちは、授業の見学や補佐をしたり、実技の自主鍛錬をしたりという日々だ。とくに難しいことはない。難しいのはむしろ、教壇に立ってからだろう。 「俺、先輩とこんなふうに、同じ教室で授業を受ける日が来るとは思わなかったなあ」 「ひとを留年したみたいに言うなよ……でもまあ、俺も思わなかった」  伝習生と研修生、立場はちがっても、本来同じ教室にいるはずのない二人だ。山田の言おうとすることは、何となくわかる。  いなくなった同期生たち、空席の目立つ教室、ここにいるはずのない卒業生。この春、自分たちを取りまく世界は一変した。 「そういえば、和泉先輩は何を教えるんですか?」  山田が思い出したように訊ねる。 「基礎鍛錬(きそたんれん)と史学だよ」 「えっ? でも、基礎鍛錬って——あの身体で?」  山田は言いにくそうに口ごもる。千隼が入院しているあいだ、彼は一度見舞いに来ている。左腕を肘の上から失くしたことを知っていた。  佐一はわざと明るい声を出した。 「剣術や組手は難しいけど、基礎鍛錬なら問題ないよ。まだ一年近くあるんだし、体力だってすぐに戻る。大丈夫だよ、千隼は強いから」  誰より強く優秀だった親友が、こんなところで折れてしまうはずがない。大丈夫、きっと元気になる。「もとどおり」にはならなくても——いつの間にか、自分自身にそう言い聞かせていた。 「……そうですね。和泉先輩なら、きっと大丈夫ですね」  山田がうなずいた。  次の授業の始まりが近づいてきた。後輩と別れて教室を出ようとした佐一は、ふと思いついて訊ねる。 「中退しなかったってことは、おまえは皇派軍になるんだろ?」  山田は一瞬、何ともいえない顔をした。ややあって、あいまいな笑みを浮かべる。 「ええ、まあ」  五月の長い日が暮れようとしている。  研修を終えた佐一は、千隼とともに長屋の寮へ帰ってきた。佐一はいま、南陽の実家で暮らしている。まだ研修生の身分では、教務員の寮には入れない。  八十(やそ)に身寄りのない千隼と郁は、ひと足先に寮に入っていた。郁の住む女子寮は、揮皇館のすぐそばだ。  研修のあと、佐一はいつも千隼の寮に寄ってから帰る。千隼がまだ身の回りのことをうまくこなせずに、苦労しているからだった。 「ねえ、千隼。さっき正門のところにいた人だけどさ……」  重い鞄を畳に置いて、佐一は言った。借り上げの独身寮は、六畳一間に狭い土間というつくりだ。南側には、小さいながらも庭がある。  ランプに灯を入れながら、千隼がうなずく。 「ああ。一期生の誰かの縁者かもな」  二人が揮皇館を出るとき、正門の外に一人の男がたたずんでいた。ととのった口髭の、どこか西国(さいごく)の紳士を思わせる風貌の男だ。佐一たちとすれ違っても、男はこちらを見なかった。揮皇館をじっと見つめる暗いまなざしは、ただ通りかかっただけとは思えなかった。  この早春に、彼は誰を亡くしたのだろう。家族か、知人か。  佐一は鞄から小さな巾着を取り出した。中には針と糸、指ぬきなどが入っている。千隼が布団の上に畳んであった寝間着を持ってくる。 「じゃあこれ、頼むな」 「うん、まかせて」  寝間着の紐を片手で結ぼうと四苦八苦するうちに、縫い目がちぎれてしまったらしい。佐一は針に糸を通して、取れた紐を縫いつけはじめた。  片腕での暮らしというのは、どれほど不自由なものだろう。いままであたりまえにできたことが、ある日突然できなくなる。日々の何でもないことに、誰かの手を借りなければならない。考えただけでわずらわしい。  千隼はそばに座って、じっと佐一の手もとを見つめている。やがて感心したように言う。 「すごいなあ、おまえ。何でもできるんだな」 「小器用なだけだよ」  佐一は苦笑する。昔から、たいていのことは人よりうまくできた。生まれや育ちに恵まれて、適当にやっているだけで、それなりに生きてこられた。千隼のように、努力して何かを勝ち取ったことなど一度もない。  ——それなのに、どうして。  適当に生きてきた自分ではなく、誰より努力家だった親友が、片腕とともに将来を断たれてしまった。なぜ、千隼だったのだろう。あまりに不公平だ。自分の腕でも脚でも、いっそ頭でも吹き飛ばしてくれたら、こんな思いをしなくてすんだのに。  苦い気持ちを飲み込んで、佐一は手を動かした。  住みはじめたばかりの部屋は殺風景で、何もない。隅に畳まれた布団、壁ぎわに置かれた行李(こうり)、小さな文机。それだけの部屋に、糸が布を通り抜ける音が響く。 「明日は休みだから、晴れたら布団を干したり、洗濯もできるね」  それを聞くと、千隼は(とび)色の目を瞬いた。 「おまえ、明日も来るつもりなのか?」 「うん、そうだけど?」  千隼が少し困ったような顔をした。 「何もそんな、毎日来てくれなくていいんだぞ。おまえだって、自分の時間がなくなったら何もできないだろ」 「俺はいいよ。家にいても、別にすることもないし」  実家では家事はしなくていいし、家でまで勉強するほど勤勉でもない。手や頭が空いていると、余計なことばかり考えてしまう。それなら、こうして千隼の身の回りのことを手伝っている方がいい。 「俺がしょっちゅう来ると目障り?」  訊ねると、千隼は首を振った。 「そんなわけないだろ。でも、いつまでもおまえに甘えるわけにはいかない。自分で馴れていかないと」  自分自身に言い聞かせるような声だった。いまの自分を受け入れて、何とか前を向こうとしている——そんなふうに見える。泣き言ひとつ言わない姿は、かえって痛々しい。 「気にしないで。俺は好きでやってるから」  佐一はせいいっぱい明るく言った。縫い終わりを玉止めし、糸を噛み切って始末する。われながらよくできた。 「はい、できたよ」 「助かった、ありがとうな」  しっかりと紐をつけ直した寝間着を返す。千隼は嬉しそうに受け取った。 「ほかには何かある?」  帰る前に、片手では難しいことはなるべく引き受けてやりたい。部屋を見回していた佐一は、ふと、千隼の右手に目をとめた。 「千隼、爪が伸びてるね」 「ああ、本当だ」 「はさみはある?」  千隼に借りたはさみを手に、畳に座る。立てた膝のあいだに、千隼がすっぽりとおさまる。爪の丸みにそって切るには、向かい合わせよりこの方がいい。  左手で千隼の右手を包むようにして、はさみをあてる。まずは小指から。ぱちん、と乾いた音がして、小さなかけらが畳に散った。  佐一はゆっくりとはさみを動かした。友人の小さな手を傷つけないように、細心の注意を払う。入院しているあいだは、誰かが切ってくれたのだろう。これからは自分が気をつけてやらなければ、と思う。 「来年は俺も寮に入るから、いまよりもっと千隼を手伝えるよ」 「……そうだな」  千隼がうなずく。膝のあいだにおさまった身体は、佐一の記憶にあるよりも、だいぶ肉が落ちてしまった。基礎鍛錬を教えると聞いたときの、山田の心配そうな顔を思い出す。  ——大丈夫、千隼は強いから。きっとまた元気になる。  胸の内で、祈るようにくり返す。退院したばかりの友人のために、できることは何でもしてやりたい。そばにいたい。あらゆるものから守ってやりたい。  ——ああ、そうか。俺、千隼のことが好きなんだ。  ぼんやりと頭にあったものが、とうとう腑に落ちた。目の前が開けて、見えていなかったものが見えてくる。まばたきひとつするあいだに、世界が変わってしまったような気がした。 「佐一? どうかしたか?」  怪訝そうな声にはっとする。いつの間にか、はさみを持つ手が止まっていた。 「ごめん、何でもないよ」  佐一はあわてて笑顔をつくる。千隼の小さな手をとって、ふたたびはさみを動かした。そうしながら、芽吹いたばかりの気持ちを胸の奥にしまい込んだ。  千隼に告げるつもりはなかった。自分のせいで片腕を失くした友人に、そんな浮ついたことを言えるわけがない。ただずっと、そばにいたい。揮皇館という箱庭で、千隼とずっと一緒にいたい。  ぱちん、ぱちん、と爪のかけらが散る。人差し指が終わると、あとは親指だけだ。窓の外は暮れ色に染まっている。もうそろそろ帰らなければ。  あともう少しだけ、こうしていたい——佐一は思う。  告げることのない思いをよそに、なごりの春が過ぎていく。
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