気づく

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ニセモノの人生を生きてきた。 自分を偽り、他人の言い分を優先して。 いつも「いい人」でいることが自分の役割で、 そうであることを心掛けてすらきた。 本当は、「いい人」でいることがずっと苦痛だったけれど その苦痛に気づかないようにしてきた。 苦痛の奥にいる何かを認めることが怖かった。 見ないように 気づかないように このまま無難に人生を送る・・・ 気づいてはいけない、本当の「わたし」には。 ・・・・「わたし」は限界にきていた。 ※※※※※※ 佐伯美希は、いつものように会社のデスクに座っていた。 入社して10年。 いつもの時間に出社して、 いつものように仕事して、 いつものように同僚と雑談して、 いつもの時間に会社をでる。 この繰り返しの日々に、美希は満足していた。 映画やドラマのような波乱万丈な経験も、 人に語って聞かせることが出来るような恋愛体験も、ない。 でも、それでいい。 何事もなく無難に過ごすことが一番で、大きな変化など必要ない。 とりあえず周囲に適当にあわせて、 できるだけ「いい人」だと思われていれば、安全だ。 だから特定の誰かと仲良くなることも避けてきた。 必要以上に感情が揺さぶられることを一番避けてきた。 のに。 先週新しく入ってきた派遣の女性のせいで、 美希の「いつものような」一日が狂い始めた。 何故だろう、この女性の登場で美希の心がざわつき始めた。 美希は、その女性に仕事を教える担当になった。 それぐらいは平気だ。 それだって、今までのように、 そつなく、やさしく、いい人で教えればいい。 難なくこなせる。 はずだった。 女性の名前は、緑川裕美香。 美希と同じ年齢らしい。 明るい性格で、仕事の覚えも早いし、素直でよく笑う。 あっという間に、社内にもとけこんだ。 彼女は人懐っこい性格で、 グイグイと美希の懐に入り込もうとする。 そういうタイプももちろんこれまでで決して初めてではない。 なのに何故か、裕美香といると今まで感じたことがないような 不快な波で、胸の奥がざわざわする。 こんなことは今までの美希にはなかった。 なので裕美香とのやり取りは、美希には苦痛で面倒なだけだったが、 そんなそぶりは一切見せないよう、 表面上は上手く合わせてやり過ごしていた。 「ねえ、佐伯さん。」 裕美香が美希に話しかけてきた。 「何?」 「今日、会社の帰りに一緒にご飯でも行きませんか? 方面同じみたいだし、いいお店が出来たんですけど一人じゃ入りにくい感じで。良かったら、一緒にどうですか?」 正直、美希は断ろうと思ったが、 いつもの「いい人」でいたい気持ちが湧いてしまい、 「いいですよ。私で良ければ。楽しみですね」 と答えて後悔した。 「ま、いいか。適当に合わせて、早めに帰れば。」 美希は、誰にも見えないところでため息をついた。 ※※※※※ 「ね、いい感じのお店でしょ。」 裕美香はそう言って、店の一番奥のテーブルまで美希の腕をひっぱっるようにして強引に連れていき、美希をテーブルに座らせた。 「確かに。。いい雰囲気ですね。」 強引な裕美香に美希はたじろぎながら、店の中を見渡した。 イタリアンっぽいが、薄暗く、雰囲気が良いと言えば良いが、 美希には居心地が悪くて、落ち着かない。 キョロキョロしている美希に、裕美香が言った。 「さて、今日は実は大事な話があるんです。 それで、ここに連れてきました。」 裕美香が真剣な目で、まっすぐに美希を見つめる。 「え?何?どんな話ですか?」 裕美香の表情はいつもとは全く違う。1ミリの笑みもない。 「えっと、どうしたの?緑川さん。」 美希は裕美香の視線が恐ろしくなってきた。 裕美香の表情がだんだんと険しくなってゆく。 「ねえ、もういい加減、わたしに気づかない?」 裕美香の口調は怒りを含んでいる。 「は?誰に気づくって?」 戸惑いながら美希は裕美香を見返した。 「わたし、いい加減、限界なんだけど。」 裕美香は続ける。 「もう返して。わたしの人生。」 ※※※ そうだった。 美希は気づいてしまった。 美希は気づいてはいけなかったのだ。 自分が、ニセモノだということに。 だから気づかないように、ずっと自分にブレーキをかけていた。 裕美香が本当の自分で、 美希は、裕美香のニセモノだった。 そのことに気づいてしばらくすると、 美希は何故か、ほっとした。 もう「いい人」である必要がないことが、嬉しかった。
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