天使

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天使  大人がはしかにかかると症状が悪化しやすいらしいが、それと同じことを精神科で言われることになるとは思わなかった。初めて天使が見えたのは仕事中だった。重役に向けて収支を報告するプレゼンの最中、視界の端に小さく少年が見えた。年齢はたぶん10歳くらいで、頭に天使の輪っかが浮いている。ビジュアルからして見るからに天使だ。ネットで検索しても、視界に蚊のような黒い点が見える飛蚊症のことしか書いていない。深夜まで残業している間も、テレビを見ているときも天使が見える。視界の端っこで大人しくしているだけならまだ良かったが、最近になって動き出し、なおかつ話しかけるようになってきて耐えきれず精神科を予約したというわけだ。グーグルで口コミを検索して、なるべく優秀そうな医者を探した。変人あつかいされるかもしれないと恐れながらも意を決して「最近天使が見えるんです」と打ち明けると、度のきつそうな分厚い眼鏡をかけた老医師はちらりとこちらを見て、「ああ、天使ですか。今も天使は見えますか?」と聞いてきた。  医師のあっさりとした口調に面食らった。淡々と診察を続けることに困惑しながらも「はい、あの、机の上に今もいます」と眼の前の机を指さして説明した。天使は医師の前にある大きな書き物机の上に座りながら足をぶらぶらさせ、医師が書くカルテを興味深そうに覗き込んでいるが、ほかの人と同様医師には私の見えている天使の姿が見えない。 「天使は見えるだけですか」  カルテに何か書きながら、こちらを見ようともせずに医師は問診を続けた。 「最初は視界の端っこにいるだけで、こう首を動かすと同じ場所についてくるんです。飛蚊症みたいに。でもそのうち意思があるみたいに動き始めるようになって、それから最近は・・・」 「喋るようになった?」 「はい」  答えると、医師はカルテに何かを書いた。 「人がいるときも天使は喋りますか?」 「いいえ。喋るのは二人きりのときです」 「二人?」  さりげない口調だったが、聞き返されて狼狽した。天使はあくまで妄想だ。頭数にいれるべきでないだろう。 「あ、いえ、すみません、私一人でいるときだけ喋りかけてきます。でも日常生活に支障があるんです。どうにかなりませんか」 「わかりました。じゃあお薬だしておきますね」  医師はそれだけ言って問診を終えようとしたので「ちょ、ちょっと待ってください。診断は?」と聞くと、上述のようなことを言われたというわけだ。  セレスティア・ハルシノーシスという病名なのだそうだが、これを日本語で訳すと神聖幻覚症候群というらしい。普通は思春期の子どもが発症するが、ごくまれに大人でも罹患する。 「強い後悔や良心の呵責を長期間にわたって感じ続けると起こると言われていますが、大抵は1週間くらいで消えます。動いたり話したりしますが、人がいるときに話すようにならなければまあ大丈夫でしょう。お大事に」  よほどさっさと診察を終えたいらしい。実際精神科は予約がつまっていたし、問診が始まるまでにもえらく待たされた。人がいるときに話すようになったらどうなってしまうのか気になったが聞くことができずに薬をもらって帰った。 「ねえ、やっぱりチョコレートケーキも買っておけばよかったんじゃないかな。今日は金曜日だしさ」  スーパーで会計を済ませて帰る途中、天使が買い物かごをみながらぼやいた。  病名をネットで検索してわかったことは、おおむねあの医師の言ったことと同じだった。天使は自分が生み出した幻想で、話す内容も自分の思考レベルや知能指数に基づいている。あの有名な画家のミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチそれに葛飾北斎も同じ症状があったのではないかと言われているらしい。だが、だとすれば私の天使とは比べ物にならないほど高尚なことに後悔するにするに違いない。葛飾北斎は90歳で亡くなったが、死の間際に「もし天命があと5年あったら本当の絵師になれただろう」と遺言を残したくらいだ。 「仕方ないだろ、健康診断で中性脂肪が多いって言われてるんだから」  そう言い返すが、天使は素知らぬ顔で隣をのんきに歩いている。強い後悔や良心の呵責を長期間にわたって、というのはどういうことなのだろう。そもそも後悔のない人生を送っている人間などいるのだろうか。自分の人生を改めて振り返ってみて、仕事はどうだ? 今の仕事が心からしたかったことか、自信がない。プライベートはどうだ? かつての恋人と結婚しそこねてそれからずっと独りだ。周りはみんな結婚して子供がいる。 「子供」  思わずつぶやいた。この天使、はじめは輪郭も顔立ちもぼんやりとしていたが、最近ではくっきり見えるようになった。天使なんだからさぞ美しく整った顔をしているのかと思っていたが、そうでもない。十人並みだ。鼻は低いし、目は離れ、小狡そうな顔をしている。誰かに似てると思ったが、今になって思い至った。自分の子供のころの顔にそっくりだ。  チョコレートケーキが食べたい。母親にそう訴えてもだいたいは我慢させられた。夕飯が食べられなくなるから、お金がないから。習い事や塾や進学先、就職先。子供のころはいつも何か我慢してきたような気がする。 「ケーキ屋でチョコレートケーキでも買うか」  そう提案すると塀の上に野良猫を見つけて遊んでいた天使が「マジ?」と嬉しそうな顔をした。  こいつが子供の時の自分自身だとしたら、どうして我慢させる必要があるだろう。天使はたべものを食べないので、食べるのはもっぱら私だが、それでも天使の気が晴れるのならそれでもいい。おしゃれなケーキ屋に入ると中は若い女性とカップルで埋め尽くされていてめげたが目当てはチョコレートケーキだ。ショーケースにはいったチョコレートケーキを指さして店員に頼むと、店員は「おいくつ包みましょうか?」と聞いてきた。  ひとつ、と頼もうとすると、横から天使が「二つください」と言ってきた。 「はい、おふたつですね」と言って店員がケーキを二つ包む。  家に帰ってから2つの皿にケーキを盛り付け、2つのティーカップに紅茶を淹れた。天使は食べられないので食べるふりだけだ。今日は金曜だし、天使のいう通りたまにはいいだろう。こうして過去の自分がしたかったことを大人になってから存分にやればいい。そうすればきっとあの天使も満足して、やがて見えなくなるだろう。でもチョコレートケーキ二つはさすがに多すぎて胸焼けしてきた。眠る前にベッドの中で、ふとあのケーキ屋での会話を思い出す。「二つください」そう言ったのは天使だった。天使が人前でしゃべったのは初めてのことだ。だとすると症状は良くなっているどころか悪化している。  ふと起き上がって寝室の端っこにいる天使の姿を眺めた。そいつはこちらをみるとにやっと笑った。 了
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