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それを初めて知ったのは十代の頃だったと思う。
読んだ本の文章で……小説かエッセイか覚えていないのだが……「天使が通る」という言い回しに出会った。
それまで続いていた会話が、突然途切れて沈黙する瞬間。
二人同士の場合もあれば複数の時もあるのだろうけど、最も特徴的なものが一つの室内でそれぞれ小島のように集まったグループが絶え間なく会話していたのが、突然一つの瞬間に言葉が途切れて沈黙する。
皆が何かのきっかけで口を閉じたのではなく、突然生じた偶然である。
日常会話だと、表現として滅多に出ない表現だ。
普段のさばけた会話使うには、あまりそぐわない詩的な言い回しだからだろう。
元々はフランスの慣用句らしいが、これのはっきりした由来は分からない。
一説にはキリスト教の寄宿学校で同じ年代の集められた生徒ら、絶えない筈の私語が前触れもなく突然途切れることがある、そんな時に「天使が通った」ということらしい。
誰かがそう口に出して、それがきっかけで皆が笑うものか。
また別の説では……いや、今は目の前のトマトを刻むことだ。
彼は今日か、またその後か、とにかく年内に私に話をするだろうと思う。
そして来年にはあの女と……いや、これまでも私の知らないところで会っていたのだろうから、それは変わらない。
はっきりと私が彼の世界から遠ざけられ、いないものとされるのだろう。
これからやってくる彼の表情を予想する。
もう長いこと笑顔を……無理やり作ったものではない、本当の笑顔を見せてくれてなかった。
心から寛いで楽しんだ、本当の笑顔というものが彼の中から消えてしまっていた。
それは私には言ってくれない、彼の苦悩なりが原因とばかり思っていた。
ところが実際には私の知らないところで別の女と会い、彼女の前で昔の笑顔を……今の私には見せない笑顔を……見せていた。
どうやら私にはもう彼を笑顔にすることができないようだ。
鶏肉、玉ねぎ、人参、トマト、ピーマン、ニンニク、ローリエ……。
炒めた食材たちに水を加えてもう煮込んでいる。
彼がもっと早くついていたら一緒に煮込んでやったのに……いやそこまで物騒な考えはさすがにすまい。
私は怒っているのだろうか。
いや、あの女に嫉妬することもないし、深い怒りはない。
もしかしたらプライドのようなものが傷ついているかもしれない。
どこかで「選ばれなかった」ということに、屈辱のようなものを感じている自分があるような気もしている。
でもそれは自分の中で重要なものでもないと感じている。
仮に、未来にあの女と別れて私を選んだとしても私は嬉しいとは思わないで困惑するだけだと思う。
関係が修復することよりもいっそのことはっきりと離別を告げられた方が清清するする、それが今の気持ちだ。
出来れば今夜の食事くらいは、二人平和におとなしく味わって終えたいものだ。
その後ならば、テレビドラマのようにいくら感情が乱されてもいいだろう。
鍋の中のシチューはトマトで赤く染まり、火加減を見ながら私の中で不穏な連想が走る。
自分は本当に怒っていないのだろうか、と疑問が湧く。
蔑ろにされた、と思うのが自然なのかもしれない。
でも本当に私は自分の望みが分からないのだ。
彼と会って二人向かい合って会話している時に不意に言葉が途切れる。
"Un ange passe"、「天使が通る」と私の頭の中に思い浮かぶ。
実際はもっと混沌としたその場の群れが一斉に声を止める瞬間で使うのかもしれないが、私の頭ではふっと「天使」が通るのである。
人によっては思わず噴き出すような、滑稽な瞬間のように思えるかもしれないが、私にとっては不吉な予兆そのものだ。
"Un ange passe"の説で一つ奇妙なものを聴いた。
本来は我々のよく知る「天使」を意味する"Ange"の言葉に別の意味がある、というものである。
18世紀、まだ帆船の時代のフランス海軍で、海戦で使われる大砲が撃ち出す砲弾、これが粉々に粉砕されたものを"Ange"と呼んでいた、というところから来る説だ。
船体を沈めるための鉄球ではない砲弾は、わざと榴弾や散弾のように飛散することで帆や船員に被害を与えて、船の足を止めるような効果を狙っていた。
敵船から降り注ぐ砲弾の破片はたとえ欠片であっても柔らかい人体にとっては一つずつが銃弾のようなものだ。
その身に受ければ、手足を失うかもしれないほどに危険。
だから砲撃されたと同時に船員たちは皆沈黙し、"Ange"が自分たちに降り注ぐかどうかに耳を澄まさなければならなかった。
彼の心がもはや自分のところには無いのは、もう随分と前から感じていた。
心が通い合わなくなっている事は明らかだった。
だから私は耳を澄ませていたような気がする。
彼が私に最後の言葉を口にするのを、言葉が砲弾の破片になって私を粉々にしてしまう瞬間を。
真っ赤な鍋の中身を見て私は考える。
ムンクの『叫び』では、あの人物自体は叫んではいない。
フィヨルドの上に立ったムンクは日没と同時に血のような赤に染まった雲を見て、壮大な自然の中に響き渡るのを聴いたそうだ。
顔に添えられた両手は頬ではなく耳を塞いでいる。
世界の叫びから逃れようとして。
私の方は世界の沈黙に包まれる。
スマホに彼からのメッセージが入る……電車に乗って向かっているところだ、と。
来る頃には食事の仕上がりはちょうどいい具合になっているだろう。
気が付くと私はキッチンナイフの刃をじっと見つめいていた。
そして疑問が浮かんでいる。
……本当に私は怒っていないのだろうか?
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