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大海原の懐で(2)
…………シーサーペント…………。
呼び寄せるようにおれは心でつぶやいた。
身体が冷えて、唇から声など出なかった。
相手がそれなのだとわかったら、おれは凍りついてしまった。
波間に揺られ、しがみついている木箱は揺れ続けるが、おれは動けない。
黒……いや、濃い灰色に見えるそいつは動けなくなったおれを見ていたが…………しばらくすると、ぐーーーっと進んできた。
船の船底に長い身体をぬたっと載せるや、そいつはするるるーーーっと、首を胴体を、おれに目がけて進ませた。
ギギギギ……と船体が沈み込んだ。
……シューっという音、魚が腐ったのかという臭いが寄ってくる。
海の怪物にはたてがみに似た背びれがあって、身体の表面はつるつるだった。
尖った顔に細く鋭い牙、楕円形の瞳は蛇のそれにそっくりで、怯えたおれの顔がかすかに映っていた。
風があり、雨があり、波があるはずなのに、おれにはなにも感じられなかった。
身体が揺れているのだけは、どこかでわかっていた。
波のせいなのか、おれ自身が震えてるのか。
おれは海と、嵐と一つになっていた。
もう、父ちゃんや母ちゃんのことをおれは考えていなかった。
そして、自分が助かりたい、ともおれは思っていなかった。
…………恐怖がすべてだった。
おれの全部をパクっと飲み込めそうな口が、そこにはあったのだから。
……………………。
なにもかもが停止した沈黙の後、海の怪物はおれの直前で暗黒の海へと潜っていった。
そいつにぶつかって、木箱ががくんと押された。
ぷしゃぁーーぁああ……っと、潮かなにかがおれにかかった。
こいつがどんな生き物なのかが、これでわかった。
そいつの重さに耐えきれず、船はさらに深く沈み込み、めきめきめきと船底に亀裂が入った。
上下反転して死に、水へ浮かんでいる大きな魚の腹が割られたように見えた。
あ、あっ、ああ……ああ……。
……ながい、おおきい。
こんなものがいるのか、な……なんてことだろう……。
こいつの全長は、おれが乗ってた船のゆうに三倍はある。
……も……もっとあるかもしれない……。
海の怪物は潜ってゆき、全身を海中に埋めて、おれの視界からは消えた。
怪物の重さから解放されて、転覆している船が大きく上下に揺れる。
……雷が鳴った。
気づいたら、雨が降り続いていた。
やはり、嘲笑う風があって、波がなにもかもをもてあそんでいる。
止まっていた時が動き出すと、おれはがくがく震えて震えてどうしようもなかった。
全身ずぶ濡れだから、はっきりとはしないが……自分でも知らない間におれは小便を漏らしていたかもしれない。
ガクガクと震えながらもおれは笑い出した。
……っ……ははは、はは……。
「ここで死んではならない、生きていたい、生きて陸に戻りたい」
……だって!?
……あっ、あっ、あまりにも、おれは無力じゃないか。
この大自然の猛威の中で、人間は無力だ。
おれにいったい、なにをどう、できるのだろう。
船を元に戻したり、父ちゃんと母ちゃんを助けたり、海の怪物を撃退できるのか?
雷を、雨を、波を、風を、止められるのか?
今すぐにでも、海中からさっきのシーサーペントに襲われるかもしれないじゃないか!!
……ふっ、はは、はは、はは、はっははっ……。
こんなに弱い……人間にいったい、どんな救いがあるのだろう……。
永遠と続くのか、と感じる雨も波も風も雷も答えを与えてはくれない。
冷たく厳しい大自然という教師の懐の中で、びしょ濡れのおれは揺られていた。
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