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嘉村早夜は、公園のベンチにひとり座っていた。
その口から、ふいに、
「あっ」
という、驚きとも喜びともつかぬ、声が洩れる。
ひさしぶりに、彼のことを、思い出したのだった。
今までは、まるで記憶自体にもやがかかったように、存在があやふやになっていたのに。
「なんで、忘れてたんだろう」
自責の念が、押し寄せる。
あれだけ、自分だけは忘れまい、と、心に誓っていたのに。
「兄ちゃーん!」
おさない声が、頭のなかにリフレインする。
ちいさな、可愛らしい顔が、おぼろげではあるものの確かに、ゆらゆらと揺れる想い出の内側で微笑んでいた。
何年、会えていなかったかも、もう覚えていない。
彼は、ある日突然、いなくなってしまった。
別の顔が、割り込んでくる。恋人が険しい顔をして言っていたことを、脳裏に浮かべる。
「帰ってきているぜ。あいつが」
神隠しに遭った、あいつが。
「紅……」
早夜はふと、その名を呼んでいた。
まさかそれに、返事が返ってくるとも知らずに。
「ここにいるよ」
え、と発した声が、かぼそく消える。
背後から、たくましい腕が、早夜の身体を抱きすくめていた。
ふわふわとした感触。
それにしばし目線を留め、それが、カラスのようにつやつやと濡れた黒色の、巨大な羽であることを認識する。
振り仰ぐ。
きっ、と吊り上がった、強い目が、いとしげに細められた。
深紅の唇が、ひらく。
「早夜兄。やっと、思い出してくれた」
もう一度、彼の名を呼ぶ。
先ほどの独り言よりも、弱々しく震えた声で。
「べ、紅……?」
その姿は、いったい。
問いかけに、さみしそうな笑みで応える。
「なあ。俺、ずいぶんと変わっちまっただろう」
口元に手を添え、ひとりごとをつぶやく。
「###」
それは明らかな、知らない世界線の音列。
「それでも、早夜兄に会いたくて、我慢しきれなくて、戻ってきたんだ」
なあ。
顔を寄せ、たずねる。
「いっしょに、俺と暮らしてくれるか」
◇
「これは……夢か?」
早夜が自分の頰をつまもうと手を伸ばすより先に、つめたい手が、そっと、彼の顔に当てられる。
「……!」
「夢じゃない。俺にとっては、夢にも近しいことだけれど」
会いたかった。向こうに連れて行かれてから、ずっと、ずっと。
黒いふわふわの羽が、ひとりでに動き、早夜の背を撫でる。
「きっと後悔はさせない。俺といっしょに、いつまでも睦まじく暮らしていよう」
ふわり、と宙に浮く。
飛ぼうとしている、と気付いた早夜が叫ぶ。
「ちょ、ちょっと待て!」
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