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5月のゴールデンウイーク、秀一はパタヤのホテルで朝食を取っていた。後から起きてきた息子が、バイキングで山盛りの食事を持って隣の席に座った。大量のガパオライスが皿に盛られている。仕事でタイ在住の息子の匠太は総勢90キロと体格が良い。「俺、これ好きなんだよね。週に5回は食べてるかな。」と皿のガパオライスを口に運んだ。匠太は、新潟の大学を卒業後、すぐにタイの輸入商社に入社して生活していた。商談も多いせいか高校球児の頃のスリムな体型は、おおよそ想像できない。『俺、若く見られないから商談には有利かもね。』と以前に匠太が話していたのを思い出した。
秀一が、「タイって全然雨が降らないんだね。この辺は雨季って無いんだっけ?」と聞くと、匠太は、「そろそろじゃないかな。でも、正確にいつ頃からかは判らないな。」との返し。秀一、「雨季になるとずっと降ってるの?スコールみたいに激しいの?」と立て続けに質問。匠太は、「雨季でもずっと降ってるわけじゃないからね。観光はそれなりにできるよ。雨季のほうが、光る景色が綺麗という人も多いから、旅行はどっちでも良いんじゃない。俺は雨季のタイの方が好きだな。」との言葉だった。
秀一は心の中で、『今は雨季になるギリギリくらいなんだな。タイの雨はどんな感じだろう。日本のように風情のある雨じゃないよな、きっと。ザーッとスコールで全身びしょ濡れか?こっちの人はいつも傘を用意してんのかな?カッパかな…。』とたわいもないことで頭を使っていた。タイに来る前に、息子がラインで送ってくれたムービーに「水かけ祭り」と言うのがあった。道路に出た沢山の人々が道行く車やお互いの身体に水を掛け合っている。妻美恵も動画を見て、「なんかお祭りには見えないよね。」と言っていた。日本のような派手なイルミネーションや出店も無いように映像では見えたが、きっと人々は楽しいのだろうなと思った。
それにしても、こちらに来てホテルや飲食店の水はあまり美味しく感じなかった。味がないのだ。宿泊した部屋の冷蔵庫の水も、「こっちは有料でこっちは無料だからね。」と匠太から説明を受けたが、秀一は違いが良く判らない。美恵が理解したようなので任せることにした。『なんでこっちは水に拘るんだろう。有料と無料はどう違うんだ。どっちもペットボトルじゃないか。というか、海外ではみんなそうなのかな。』と意味のないことを考えていた。
夕食も終わりベッドに横になると、疲れのせいかすぐに眠りに着いた。翌日、目が覚めると激しい雨が降り下に見えるホテルのプールの水が溢れていた。海岸への道が塞がれ昨日のように散歩はできない。23階の部屋から眺めた光景は、とてもリゾート地とは思えなかった。娘の結婚式が予定されているビーチが水で溢れている。これじゃ楽しみにしていた結婚式ができないじゃないかと思ったところで、今度は本当に目が覚めた。夢だったのだ。
水のことばかり考えているからこうなったんだなと反省し窓から外を眺めた。部屋の大きなベランダからビーチを見下ろすと、今日予定している挙式の準備が進んでいる。天気も良く碧い海、白い砂浜と緑の芝生の上に挙式の席やバージンロード、花束など会場の飾り付けが少しずつ作られているのが見えた。
夕方の予定時間になり、ビーチでの結婚式会場に家族で向かった。その後、新郎幸也と新婦静香がオープンカーで登場し結婚式を開始、少し暑い中だったが全てのプログラムは順調に終わった。滞在中の雨は一滴も降らなかったが、秀一の目からは、式中に水滴が何度も溢れ落ちた。そんな式の感動の中で、『パタヤの雨も雨上がりの空気も体験できなかったな。』と秀一は、ぼんやり思っていた。『タイには、ジューンブライドという言葉はないのかな?日本の言葉?ブライダル業界の造語なのか?どっかの国の受け売りか?』と秀一は今まで考えたことも無いことを考えていた。いずれにしても、しとやかな雨の中を新郎新婦が進む光景は、とてもこの暑いタイの地では想像できなかった。『雨の中、結婚式なんかやらねえよ。』と匠太に言われそうだったが、日本のような雨の風情は想像できなかったのだ。こうして、この感動的な結婚式は秀一の涙と共に終わった。
後に、静香にジューンブライドの云われを聞いてみたが、「私、別に6月じゃなくても幸せになれるから大丈夫。早く結婚式挙げたかったし5月の方が良かったからね。あとね、お父さん。ジューンブライドはヨーロッパに昔から伝わるちゃんとした伝承なんだよ。」と教えてくれた。そんな知識に無頓着な秀一は、娘のそんな話を聞きながら微笑んだ。挙式ツアー中、5月のパタヤに雨は降らなかった。『6月は雨季らしいが、どんな花嫁だったんだろうな。』と帰りの機内で、秀一は1人想っていた。
<終>
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