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来着
遡る事、四十三年前――
馬に跨った主人と、曳き手を握る従者が、薄暗い獣道を足早に過ぎていく。
青黒い空は残星を抱き、東から漏れる薄明かりが、道端の躑躅を微かに彩る。
「蠏足、今はどのあたりだ?」
「山背と大倭の境でさあ。 この平坂を下りゃあ、二刻半(約五時間)で宮都に着くやろお」
白い息を切らしながら、従者が答える。
「であれば昼前か。 急ぐぞ、蠏足。 早く大臣に報せねばならぬ」
「へえ!」
そう言うと、二人は風を切る様に坂道を駆け下り、残夜の闇に消えていった。
その日の朝方。
初瀬(奈良県桜井市東部)の離宮で、志帰嶋大王(欽明天皇)は近臣達と鷹狩に興じていた。
蘇我馬子、物部守屋、そして馬子の従者として、若かりし子麻呂の姿もあった。
当時、東漢坂上直子麻呂は齢二十一。馬子と同年代であった。
子麻呂は朝鮮半島南部の小国・安羅の貴公子であったが、幼い頃に祖国は新羅に滅ぼされ、倭国に渡った。祖国の滅亡は内通者が引き起こしたとも聞くが、定かではない。
そして馬子の父・稲目に拾われ、馬子と共に育った後、跡継ぎに恵まれなかった坂上氏・氏上の養子となった。
史(書記官)としての振舞を同氏の先達から教えられ、現在に至る。
馬子はやや小柄で中肉の若者であった。
五年前から父の手伝いをしていたとはいえ、父は先月逝去したばかり。朝廷の一翼を担う〈大臣〉の職を継いで日が浅い。
しかし、持ち前の人懐こさで、父の代から親交のあった氏族に支えられ、公務は恙無くこなしていた。
対して守屋は、馬子達より八つ歳上。元々の強面も相まり、治安維持や部民(隷属する人民)の管理を一手に担う〈大連〉として、既に貫禄を放っていた。
大王は齢六十を超える。先月までは体調を崩しがちだったが、最近は回復に向かい、快気祝いにと、先帝・幼武大王(雄略天皇)の旧都だったこの地へ赴いたのだった。
「それっ」
大王の左腕から放たれた鷹が、真っ直ぐ叢の中へ飛び込む。
従者が後を追いかけ草を掻き分けると、鷹は鋭い爪を野兎の首に食い込ませ、力強く締め抑えていた。
「また大王の鷹が獲物を捕えました!」
従者の報告を聞き、物部守屋はすかさず大王に会釈する。
「お見事です」
「なに。 お前の所の鷹飼いが優秀なだけよ」
大王はふっと口角を緩ませた。
「は! 有難き御言葉。 萬も喜びます」
守屋は眉一つ動かさずに一礼して答えた。
守屋は表情に乏しい男であったが、僅かな声の抑揚から、大王は彼が内心嬉々としている事を察し、笑みを浮かべながら右手で守屋の肩を優しく叩いた。
「大臣、次はお前の番ぞ」
大王は馬子に向き直り、穏やかな口調で声をかける。
「は、はい。 ちょっとお待ちを……」
馬子はそう答えたが、彼の左腕に乗った鷹は羽をばたつかせ、細い鳴き声をあげて落ち着かない。
「何をもたもたしておるのだ」
守屋は肩をすくめ、はあ、とため息を漏らした。
子麻呂も、主人の狼狽する姿に目を当てられず、手で顔を覆った。
「ははは。 腕を平らに上げぬか。 それでは鷹も留まりづらかろう」
こう上げるのだよ、と大王が馬子の腕を直していると、遠くで護衛が声を荒げた。
「おい、そこの者! 止まれ! 大王の御前であるぞ!」
「吾は江沼国造・裾代! 蘇我大臣は居られるか! 越より火急の報せで参った!」
首を上げて騒ぎのほうを見ると、護衛に囲まれた二人の男の姿があった。
「越だと? 馬子、見知った顔か?」
「いえ……」
馬子は首を小さく横に振る。
「江沼といえば、大王の父君・男大迹様(継体天皇)の御祖母様の出自。 大王を差し置いて大臣を呼ぶとは」
「まあ、あすこは北つ海(日本海)から色々なモノが寄り来る所よ。 そういう意味では、大臣を頼るのは理に適っておる」
大王は取り敢えず二人を前に連れてくるよう、護衛に伝えた。
男は馬から降り、大王の前で跪いた。
裾代と名乗る男は、翡翠の首飾りを付けた豪族であった。齢は三十半ばか、細目で目尻は下がり、口元からはひょろっと長い髭を伸ばした、馬面の男である。
もう一人は蠏足という彼の従者である。名前の通り、血色が良く、やや赤みを帯びた肌に、長く筋肉質な四肢を持った、二十歳手前の若者であった。
大王は胡床に腰掛け、馬子に竹筒に入れた水を彼らに飲ますようにと渡した。
「是をどうぞ」
「忝ない」
二人は喉を鳴らしながら水を飲み、呼吸を整えると、裾代が口を開いた。
「あの……蘇我大臣はどちらに?」
「この御方ですが」
子麻呂は、両手のひらで馬子を指し示した。
「は?」
裾代と蠏足は唖然とした。
それもその筈、二人は前大臣である稲目の逝去など、知る由もない。真逆この若者が大臣とは思いもしなかったのである。
「父なら先月亡くなりました。 今は息子の吾が職を継いでいます」
「あ……」
「威厳がないと、よく言われます」
馬子は眉尻を下げて苦笑した。
「否、そういう意味では……。 是はとんだご無礼を……」
直ぐ様二人は馬子に土下座したが、暫く気まずい沈黙が流れた。
最初に口火を切ったのは大王であった。
「して、報せとは何か」
「あ、はい」
裾代が軽く咳払いをする。
「先月、高句麗の船が時化のため波に攫われているところを、浦人達が比楽湊にて、保護致しました」
「やはり高麗人か。 高句麗とは国交が無いが、越では商人と独自に交易しているのは知っておる」
「それが国書と珍宝を携えた遣使だったのです。 僧も数名いました」
「何?」
大王はぴくりと片眉を吊り上げた。
外交を担う馬子としては看過できない。すかさず裾代に聞き返した。
「それは確かですか」
「はい」
裾代の報告に、一同は互いに丸くした目を見合わせた。
向こうから国交を持ちかけるなど、前代未聞の事態であった。
そもそも、高句麗とは険悪で、争う事も少なくない。
最近では八年前、親交国である百済との共同戦線が記憶に新しい。
大伴狭手彦を大将として軍を派遣し、高句麗の城を攻め落としている。
「大連と大臣はどう見る」
大王は馬子と守屋に視線を送った。
「そうですね……」
「何か企みがあるのでは」
猜疑心の強い守屋は即答したが、馬子は右手で顎髭を弄りながら、少しの間思案した。
「吾は同盟が目的かと」
「何故そう思う?」
守屋は顔をしかめた。
「現在、韓土の三国では新羅が勢力を伸ばし、北に西と領土を広げています。 漢土の斉・陳にも頻繁に朝貢し、韓土の中心として東夷校尉の官職を得ています」
「うむ。 朕が国も新羅とは通交を回復し、任那再興への理解を得ようと試みておるな」
「その通りです」
大王は、馬子の話を咀嚼するように相槌を打った。
「対して高句麗は新羅に南部を削り取られており、百済とも対立してますから、孤立状態にあります」
馬子は続ける。
「加えて彼の国はここ二十年近く、斉と疎遠です。 陳に対しても他の二国に比べて遅れを取っております」
「成程。 それで海を隔てた吾が国と同盟を結び、新羅を牽制したいと」
「はい」
「筋は通っておるな」
流石の守屋も得心し、首を縦に振った。
しかし、大王には腑に落ちない点が一つあった。
「越から此処までは二、三日であろう。 報せが二週間かかるとはどういう訳か?」
裾代と蠏足は軽く目を合わせて頷き、姿勢を改めてから口を開いた。
「それが、もう一つお報せしたい事です」
「ほう」
大王は肘をつき、訝しげに二人の顔を見下ろした。
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