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本編
或る青年が高句麗から倭国に帰化し、東漢氏の一員に加えられてから数年、時の大臣・蘇我馬子から賜った彼の新しい名前「駒」も自身に馴染み、倭国の言葉も板についてきた頃、馬子の夫人・太媛が一人の女子を産んだ。
太媛が産屋から戻った頃、馬子は何時にも増して口元を緩ませ、娘の顔を見に来ないかと、駒を邸に招いた。
駒は、麻布に包まれた赤子の顔をそっと覗いた。
「可愛い娘であろう」
「ええ、誠に」
赤く輝く肌はよく磨いた赤瑪瑙のようで、膨らんだ頬は綿毛のように柔らかい。
小さくも美しい命に、駒も自然と笑みがこぼれた。
「名前はお決めになられたのですか」
「いや、それがまだでな……。 男子であれば父や吾に倣い、獣を冠した名にしようとも考えていたのだが、女子となると勝手が違ってな」
「太媛様のお考えは?」
「勿論、考えましたよ。 ですが、殿が納得しておられぬのです」
「悪くはないのだが、在り来りでなあ」
「良いではありませぬか。 在り来りで何が悪いのです」
「年頃になれば、皇子か、大王に嫁ぐことになろう。 何処に嫁がせても誇れるような、趣のある名を付けたいのだよ」
「殿は凝りすぎです。 それで名付けの儀を延ばしていては、〝冠履を貴び頭足を忘る〟というもの」
「それはそうなのだが……」
――拘りの強いお方だ、初めての子供ということもあって、慎重に考えておられるのだろう。しかし、儀式すら先延ばしにするなど、流石に悩み過ぎではないか。
駒がそう思いながら二人の痴話喧嘩を眺めていると、馬子は何か閃いた様子で駒に向き直って言った。
「そうだ、駒。 汝、娘の名を考えてはくれぬか」
「僕がですか?」
思いがけない頼みに、駒はつい声を張った。
一瞬、赤子を泣かせてしまうのではと肝を冷やしたが、赤子は丸い瞳を見開き、じっとこちらを見つめるものの、不思議と泣き出すことは無かった。
「ほお。 侍女でもすぐ泣くというのに、汝は気に入られておるな」
「恐れ多いことです。 しかし、親族ならともかく、血の繋がりもない臣下に名付けを頼むなど、聞いたことがありませぬ。 馬子様ご自身でお決めになるべきです」
「そうですよ、殿。 これは我々で決めるべき事。 駒に余計な負担を掛けさせてはなりませぬ」
「そうは言っても、吾では良い名が浮かばぬ。 もし皇后にでもなれば、韓土の者も娘の名を耳にする事だろう。 彼らにも良いと思われる名となれば、韓語や風習をよく知っている、駒の智慧を借りたい。 決めるのは、飽くまで吾だ」
「まあ……、そのようなお考えなら、妾も反対とは申しませぬが……」
「太媛様……?」
太媛が容易く折れてしまったので、駒は焦りを募らせた。
「それに、汝にとっても他人事ではないぞ。 いずれ、娘の邸の護衛は汝が担う事になるやも知れぬのだからな。 仕える身として、主の名も誇らしいほうが良かろう」
「それはそうですが……」
「そうであろう。 だからここは一つ頼まれてくれ」
「殿は決めたらこうなのです。 智慧を貸して頂けませぬか」
こうなっては断るに断れない。駒は馬子の強い押しに負け、渋々承諾してしまった。
――己にまだ子供もいないというのに、まさか主人の娘の名を考える事になろうとは……。
駒は途方に暮れながら、己の持ち場「軽の曲殿」へと戻っていった。
この邸の主は、名を美女媛といい、馬子の父・稲目の妾である。
彼女は駒と同じく高句麗の生まれであったため、馬子は同郷の好として、駒をこの邸の舎人に任じていた。
倭国の暮らしは彼女のほうが幾らか長く、駒の数少ない相談相手でもあった。
駒は邸に上がり、美女媛に馬子の娘の様子と、名付けを頼まれた事を伝えると、美女媛は、袖で覆い隠せない程に口角を上げて、けらけらと笑った。
「あはははは、実に若らしいじゃないか」
「笑い事ではありませぬ。 儀式を先延ばしにしている事も、臣下に名付けを頼むなど、僕は聞いたことがない」
「慣習に囚われず、恥じずに人を頼る事ができるのが若の長所だよ。 まあ、時折裏目に出ることもあるがね」
「此度も裏目ではないですか」
「誰かに漏れるような話でも無いし、お決めになるのは若自身なのだろう? 太媛様も良いと仰せなのだから、良いじゃないか。 汝が気にすることじゃない」
「それは、そうですが……」
駒は不満をこぼしつつ、媛が言う事にも一理あると、口を噤んだ。
「それで、何か考えてみたのかい?」
「僕も考えあぐねているのです。 媛なら何と付けます?」
「それでは妾が考えた事になるじゃないか。 構わないが、見返りは高く付くよ」
「……聞いた僕が愚かでした」
「そう不貞腐れるな。 じゃあ、こうしよう。 妾と樗蒲をして、汝が勝ったら只でいいよ」
「またそのようなお戯れを……」
「偶にはいいじゃないか。 これは倭国では知られていないから、遊び相手がいないのだよ。 それとも汝は、主の頼みを聞けないとでも?」
媛の挑発に駒は観念し、力無く首を垂れた。
「……さがない御方だ」
「賢しい御方というのだよ」
媛は悪戯な笑みを浮かべてそう言うと、侍女を呼び、須恵器の高坏と小枝を四本、砂利八粒を持ってこさせた。
そうして、刀子で小枝の片面を削り、高坏の面に筆で目盛りを描いて盤とした。
「やり方を忘れたわけではあるまい?」
「勿論。 四本の〝棒〟を振るって出た目の数だけ、駒を進める。 四つの駒を全て出口に先着させたほうが勝ち、でしょう」
「良し。 先手は汝で構わんよ」
「では……」
駒が勢いよく上へと投げると、棒は全て樹皮の面を向けて卓に転がった。
「いきなり〝馬〟(伍)とは、幸先が良いじゃないか」
媛の煽りに構うことなく、駒は黙々と砂利を一粒指先で摘み、盤の目盛に置いた。
「次は……〝犬〟(弐)」
駒は二つ目の砂利を取りながら、徐ろに媛に尋ねた。
「馬子様は何故、僕に頼まれたのでしょうか」
「さてね。 若は韓土にも明るい御方だから、倭人だけでなく、我々からしても気品を感じさせるような、含みの有る名を付けたいのかも……。 それっ!」
媛が投げた棒は、今度は四本とも削り面を上にして止まった。
「〝牛〟(泗)! おお、妾にも付きが有る」
「含み、ですか……」
「そういう視野をお持ちなのだよ、若は。 だから身内ではなく汝を頼ったのではないかね。 ……〝豚〟(壱)。 じゃあ、駒の駒にはお帰り頂こう」
「あ!」
媛は自分の砂利を先行していた駒と同じ目盛まで進め、駒の砂利を盤の外へと摘み出した。
「そうだ。 妾が勝ったら、五経を写して貰おう。 摩理勢に習わせたいからね」
「はあ!?[#「!?」は縦中横] あの量を!?[#「!?」は縦中横]」
「妾に勝てばよかろう。 ……〝羊〟(参)! これで妾は、駒を二つ出したぞ。 ほれ、汝の番」
――この性悪主人……。
嬉々として語る媛に反して駒は苦い顔を浮かべながらも、棒を受け取り、振って再び砂利を置いていく。
「それで、例えば汝は、若の子がどんな大人になる事を願う?」
「どんなと、言われましてもね……僕の子では無い訳ですし」
「名付け親になるのだから、我が子の事と思って考えたほうが良いじゃないか」
「まあ、それはそうですが……」
暫く考えながら、粛々と進めていると、駒はぽつりと呟いた。
「やはり、国母……ですかね」
それを聞いた媛はクスリと頬を緩めた。
「ふっ、大きく出たね」
「そうなれば、馬子様も喜ばれるでしょう」
「そりゃあ喜ぶだろうね。 しかし、国母になる事だけが女の幸せかね」
駒は首を傾げた。
「どういう意味です」
「国母も結構だよ。 だが、妾は国母じゃなくても、それなりに幸せを感じている」
何時になく、媛は真剣な眼差しを駒に向けて言った。
「名は呪だよ、駒。 〝何になってほしいか〟を託すと、そうではなくなった時、その人を苦しめるやも知れぬ。 託すべきは〝どう生きてほしいか〟ではないかね」
媛の深慮遠謀に、駒は目を丸くした。
「珍しく良い事をおっしゃいますね」
「失礼だな。 妾だって人の親だよ」
「そうでしたね、失言でございました」
媛が頬を膨らませているのを他所に、駒は改めて砂利を摘みながら思いを巡らせ、言葉を繋いでいった。
「辛い境遇にあっても、望みを捨てず、澄んだ水のように気高く、清らかであってほしい……。 良き公達と結ばれ母となったら、厳しくも優しく、我が子の危機には身を挺して守るような親となってほしい……とか」
「はは、それはどこか柳花夫人を思わせるね」
「柳花……?」
「汝なら知ってるだろう? 国祖・東明聖王、鄒牟(朱豪)の母君だよ」
その名を聞いて、駒は相槌を打った。
「ああ、河伯神の娘だという」
「そう。 仲人を立てずに天帝と関係を持ってしまったという過ちで、父の河伯神によって優渤水へ追放されてしまうが、金蛙王に救い出されるんだ」
「その後、天帝の日光に感応し、産んだ卵から生まれたのが、遠祖・東明聖王……」
「そういう意味では、国母というのも当てはまるかもね」
「柳花……」
駒は何か引っ掛ける感触を覚え、繰り返しその名を呟いた。
「そういえば、倭国には柳(枝垂柳)がありませんね」
「ああ、あっても館(迎賓館)や、此処と、若の邸にもあったか、遣使や交易によって植えられたものしか無い」
「では柳から付けても、倭人には伝わらないか……」
「そうさねえ。 ほっ!」
そうこうしているうちに、媛は三つ目の駒を上がらせた。
「こっちにも気を配らないと、暫く書写で休みがなくなるよ」
「やめてください、そういうの」
媛の最後の一つは、盤の中央に鎮座している。早ければ次の手番、二巡もすれば上がってしまうだろう。
対して駒は二つ上がらせて、右上角に二つ重ねて置いている。
〝羊〟(参)を出せば、媛の駒を捕まえてもう一度棒を振ることで、二つ同時に上がらせることが出来る。
逆を言えば、〝羊〟(参)以外を出せば負けに等しい状況である。
――〝羊〟さえ出れば……
そう祈りつつ、棒を振り上げた瞬間、媛が呟いた。
「柳が駄目なら、河はどう?」
「は?」
勢い良く投げるつもりが、棒は掌から滑り落ち、卓の上に軽い音を立てて転がった。
「あ……」
棒は樹皮の面一本、削り面が三本。出た目は〝羊〟(参)だった。
自分の出目を確かめた駒は安堵の余り、膝から崩れ落ちた。
「良、かったあ……」
媛の駒を中央から退け、棒をもう一度振ったところ、今度は〝牛〟(泗)が出たので、駒は自分の駒を無事、二つ同時に上がらせることができた。
「あらまあ、負けちゃったか」
「お陰様で、名前も考えられました」
「ほう、どんな?」
駒は筆を取り、木札に字を書いてみせると、媛は微笑を浮かべて頷いた。
「うむ、良いんじゃないか」
明朝、駒は再び太媛の邸を訪ねた。
「どうだ、考えてくれたか」
「はい。 石川の河上に坐す大臣の娘であられる事、清水の如く清らかで、慈悲深き乙女となることを願い、二つの意味を重ね、〝河上〟……というのは如何でしょうか」
「ほう?」
「我が国の国祖・東明聖王の御母君も、河の神・河伯の姫君であられます。 高麗人・百済人にも響く名かと」
「そうか。 河上、河上か……」
「美しい名ですわね」
「うむ、良い名を考えてくれた。 有難う、駒」
「はっ!」
馬子は上機嫌で駒に礼を述べ、褒美をとらせた。
かくして無事に名付けの儀を執り行い、赤子には〝河上〟という名が与えられた。
十数年後、彼女は泊瀬部大王(崇峻天皇)の后となるのだが、それはまだ先の話である。
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