0人が本棚に入れています
本棚に追加
事件における一般死亡者は3名、店の経営夫婦、当時36歳の映画監督。
重軽傷者は16名。
『重軽傷者』と、ひとまとめに報道されたが、それは様々だった。
妻の志津里は爆音で鼓膜が損傷し、両耳が聞こえなくなった。
そして私は、左足に壁の一部が落ちてきて......。
太ももから下が切断されてしまったのだ。
私は義足で生活するためのリハビリを続けながら、志津里のために手話を
必死に習い、志津里も手話をこなせるようになり、読唇術......唇の動きを
読んで相手の言葉がわかるようにまでなった。
やがて村に戻り、私は適性検査で車の運転は可能であると許可されて車で
役場に通勤し、障がい者としての部署に転属されて勤務を続けれるように
なった。
志津里は、村人との簡単な会話は筆記用具でやれて過ごせていた。
『私が東京に行きたいと言ったから......そのせいで......』
志津里には、自分に罪があるのだという意識が拭えず、自宅に引きこもり
レース編みをしたり本を読んで過ごしている。
そしてテレビも新聞も雑誌も見ない。
辛いニュースから避けるためにと。
豊作は、私たちが元の生活に戻れるまでのあいだ、M市の遠縁の家で
育てられた。
遠縁夫婦は大らかに優しく豊作を育ててくれた。
それでも寂しい環境の中で、豊作に『児童劇団での楽しさ』まで
学ばせてくれたのだ。
その尊い経緯を大切にしたくて、私は豊作が東京に行ったことを
志津里に永遠に騙し通すと決めた。
最初のコメントを投稿しよう!