オルガン

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 ここで僕と清水先生の出会いについて語っておこうと思う。彼女は尋常小学校の四年の時に僕に……いや、厳密には僕の組に唱歌を教えてくれたのが始まりだった。初めて清水先生を見たときは、こんなにきれいな人がいるものかと十歳の子供ながらに感動したものだった。初任だった彼女はオルガンも歌も上手で、特に歌声はそれこそソプラノの歌手顔負けだった。小さな清流みたいなあの声。当時の僕は彼女のように上手に歌やピアノが弾けるようになりたいと願った。  そんなある日のこと。当然、唱歌の時間に僕のような一児童がオルガンを弾けるわけはない。でも清水先生に憧れた僕はどうしてもオルガンを弾いてみたいという思いを募らせていた。でも先生に直接お願いをする勇気なんてなかった。だから放課後こっそり唱歌室に入ってみたのだった。いつも先生が座っている椅子に座ってオルガンの蓋を開ける。そっと白い鍵盤に触れる。なんの音かもわからない音が出た。当然両手で弾くなんてできない癖に先生の真似をしてめちゃくちゃな音階で音を奏でる。適当に鳴らしているだけなのにまるで音楽家にでもなったかのような気分だった。すっかり無我夢中。自分に近づく影になんて気が付くわけなかった。 「ねえ!」 「わ、わぁ⁉」 驚いて顔をあげると、そこにはあの清水先生が立っているではないか。 「せ、せんせい…わ……」 と、ここで取り返しのつかないことをしたという思考が僕の頭の中を覆った。勝手にオルガンを弾いて、しかも先生にばれるなんて。 「ご、ごめんなさい……僕……」 「あら、怒ってないわよ」 清水先生は真っ蒼になっている僕の顔を見てクスクス笑った。 「……え?」 「四年二組の桐生くんでしょう? いつも歌が上手で感心しているのよ」 「……えぁ、ありがとうございます」 憧れの先生と一対一で話せただけでなく、褒められてしまった。怒られるかと身構えていたのに。 「オルガン、弾いてみたかったの?」 「……はい」 「それはいい心がけね。でもそうしたいのなら練習がいるわ。」 先生はいつもの口調で僕にやさしく話しかけた。 「どの鍵盤がどの音なのか理解しなくちゃいけないし、楽譜も読めないとね」 「……」 「とは言ってもね……家にオルガンなんてほとんどの人は無いでしょうし、桐生くんも家に無いからここに来たんでしょう?」 「……そうです」 「なら、ここに練習しに来たらいいわ。私が教えてあげる」 「えっ」 清水先生の提案は思いがけないものだった。 「でも先生の仕事が増えちゃう……」 「何言ってるの。意欲のある子どもを導くのが私たちの仕事よ」 そう言って笑う先生。僕は黙って頷いた。  それから先生と放課後の練習が始まった。最初こそ指の動きもままならない様子だったが子供の吸収力はすごいもので、あっという間に簡単な曲を弾けるくらいには成長した。家でも練習できるように先生に教えてもらい、紙に鍵盤を書いて練習したこともよく覚えている。そうすると家族がわらわら寄ってきて不思議そうに僕の手元を見つめた。後々聞いた話だが、父はこの様子を見て、僕を跡取りにすることを諦めたらしい。中でも姉の美穂子は体が弱くあまり外に出られなかったので、僕が紙の鍵盤を弾きながら歌うのを楽しみにしていたらしく、よく自分の寝ている布団のそばで弾くようにとせがんだ。姉が亡くなる一年ほど前に学芸会でオルガンの演奏を聴かせてあげられたのはいい思い出だ。  月日は流れる。尋常小学校を卒業して高等小学校に進んだ後も清水先生は僕の練習に付き合ってくれた。彼女の役目は終わったはずなのに、そう言っても気を遣わなくて良いのよと聞かなかった。そして話は一九三九年に戻る。
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