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清水先生の家には立派なピアノがあった。小学校のオルガンとは比べ物にならないくらいいい音を出すそれに最初は尻ごみしたものだ。でもそんなものはしばらくしたら失せた。僕は先生が見守る中、いつものように弾き始める。先生は黙って聴いていた。八年もやっていればかなり上達するもので、初めてオルガンを触ったときのめちゃくちゃさが嘘のように僕の指は滑らかに動いていた。この頃は教える、というより場所を貸してもらう、と言った方が近かった。一時間ほど曲を弾き続け、そろそろ終わりかと先生の方を見る。すると先生は神妙な面持ちでこちらを見つめていた。いつもは読書やら編み物やらしながら聴いていたのに、この日は何もせずに聞いているしどこか妙だった。
「……先生?」
「桐生くん、今日は……言わなきゃいけないことがあるの」
「なんでしょう……?」
先生は悲しげな顔をしている。
「私ね、とうとうお嫁に行くのよ。それも遠くに」
「それは……」
普通ならおめでとうと言うべきところなのだろうが、先生の気持ちを考えるととてもそんなことは言えなかった。だって……
「ずっと小学校で子どもたちと歌えればいいって思ってたのにね」
彼女はそれを望むような人間ではなかったから。だから二十代を過ぎても結婚せず、しかも僕を家に招いて練習させてくれていたのに。
「さすがに父がしびれを切らしちゃったのよ。私も対抗すればよかったのに」
「……」
なんて声を掛けたらいいかわからない。
「だから桐生くん。もう私のピアノは貸せないわ」
「……そうですか」
僕は上手な言葉が見つからず、俯いたままだ。
「嫌よね。相手、まだ会ったこともないのよ」
――先生が僕のものになったらいいのに。
この時ふっと頭の中に沸いて出た言葉に動揺した。先生は、先生。僕は生徒。なのになにを考えているんだろう。己の気色の悪さに嫌気がさす。
「……なんて、あなたに言ってもどうにもならないわよね」
先生はあくまで笑顔だった。無論僕の黒い感情には気づいていない。いや、気づいてはいけない。
「それでね、最後にお願いがあるの。」
「なんですか」
「私の演奏を聴いて頂戴」
そう言って先生はピアノの前に座った。出会った時と変わらない、細い指が鍵盤の上に置かれる。指は踊りだし、音を奏で始めた。先生が弾いていたのはショパンの別れの曲。先生は軽やかでありながら一挙一動に魂を込めるように激しく弾いた。今まで聴いたことのないような弾き方。先生も長く見た生徒との別れを惜しんでいるように見えた。このピアノの音も、先生の弾く音も、声も、顔も、もう見ることができないのかと思うと、また黒い感情が湧きそうだった。
やがて演奏が終わった。先生は深く深呼吸をすると、ピアノの蓋を閉じ、立ち上がった。僕は思わず拍手をしていた。
「……いままでお疲れ様。長い間、本当に楽しかったわ」
「こちらこそ、ずっと教えてくれてありがとうございました……この恩は死んでも忘れません」
「……桐生くん」
「はい」
「ピアノのこと、忘れないでね」
「勿論です」
「絶対よ」
「はい」
先生は僕の手を握り、なんども忘れないでねと言いながらじっと僕の顔を見つめた。今思うとやがて戦地に向かわねばならない僕のことを何かしら想ってくれていたのだと思う。生きて帰ることを願ったのか、それとも死ぬことを惜しんだのか。それはもう僕には分からない話だ。
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